曽我物語の原点の原点か? 大見の八田屋敷  

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【 中伊豆の伝承から見た伊東 葛見庄の領地争い 】
 
大見の豪族 大見平三家政 には玉枝という娘があり、同じ大見郷の八田八郎宗基に嫁して女の子を産んだ後に宗基と死別、実家に戻った後に娘を連れて伊東の領主・祐隆に再嫁した。祐隆の嫡男・祐家(死別した妻との子)は既に早世しており、本来ならばその嫡男である 祐親 が伊豆東海岸一帯の葛見庄(宇佐美・伊東・河津)を継承するのが筋だったが、祐隆は後妻の連れ子に手を出して男子を産ませ、金石(後の 工藤祐経)と名付けて伊東庄の支配権を与え、嫡孫・祐親には河津郷を与えた。祐親は河津ニ郎を名乗り、祐隆の没後にその遺領を独占。これが三大仇討ちの一つ、曽我物語の伏線となる。
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八田八郎宗基の父は八田四郎知家。これは 義朝宇都宮朝綱 の娘(八田局)に産ませた末子の説もある人物で祖父の宇都宮宗綱 (朝綱 の父)に養われ常陸宍戸氏の始祖となった 八田知家 と同姓同名であり、年代の符合と血縁関係の有無は更に調べる必要がある。当然のこと、別人ではあろうけれど。
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大見川に近い丘には知家の館だったと伝わる八田屋敷と八田原の地名、更に小さな石塔が散乱する一族の墓所跡(かも知れないレベル)が残っている。
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屋敷の広さは二反歩(=600坪=約2000u=約40×50m)、周囲に1.5mほどの土塁を巡らし南側に出入り口を設けてあったらしいが、県道の開通によって中央から分断され、既に遺構は失われたらしい。明治24年(1891)まで残っていた八田四郎の守護神・神明神社の梁には「関野の住人 内出朝臣中務正 八田四郎は福聚精舎の大檀那で神明社の鎮守である」 と書かれていたという(豆州志稿に拠る)。
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「内屋敷」の小字もあり、もう一度歩いてみる値打ちはありそうだが同じ関野地区にある福聚院が江戸期の創建なのが気に入らない。入手した資料はこれが全てなので更に追跡しても徒労に終わる、と思う。
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更に興味を惹かれるのは八田原の北にある「城地区」である。伝承に拠ればこの地を領有したのは大見平太政光で通称は「城の平太」、吾妻鏡の治承四年(1180)8月20日に載っている宇佐美平太政光である。政光は軍功によって大見郷の地頭職を得ている。
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大見一族は桓武平氏の子孫を称し、越後に土着して「城」を名乗った平貞成から5代目の平太家信が大見に入ったのが最初、とされる。家信と共に越後から伊豆に移住した一族が大見の北に土着し本家の姓である「城」を名乗った...「城」は滅多にある姓じゃない、この可能性にはもっと早く気付くべきだったかも。


     

        左: 八田原の風景。旧関野村は大見郷に入る関所であり、背後の貝吹山は麓の城一族に法螺貝で変事を知らせる物見の役を果たしていた、と。
また、やや高台なので大見川から耕地に取水できず城川に堰を造って水を汲み上げたため堰が転化して関になった、とも。
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        中: ただし、源平盛衰記に「頼朝挙兵に参加」と書かれている城平太の名は、吾妻鏡には記録されていない。右側麓にある白山神社の周辺には
「城」あるいは「平」の字名や屋敷跡の伝承も残っているが既に史蹟の確認はできず、推定の域を出ない。
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        右: 修善寺街道沿いに残る古い字・八田原の名を冠したバス停。大見領の西端・城地区と狩野荘との中間地点に位置する。


     

        左: 大見川沿いの古い地名・八田屋敷の中央を県道12号(修善寺街道)が横切っている。旧跡は既に失われ昔日の面影は見られない。
        中: 県道の開通工事で切り落とされた丘の上が八田屋敷の史蹟。大見川下流の北側を本領とした一族だが、それ以上の詳細は不明だ。
        右: 2005年頃まで立っていた史蹟表示の杭は、2010年の春には失われていた。やがて八田屋敷の存在も忘れ去られて行くのだろう。


     

        上: 茶畑に囲まれた木立の中に小さな石塔と祠、そして墓石の残骸と思われる石塊が散乱している。滅び去った八田一族の墓所跡だろうか。

この頁は2019年 6月22日に更新しました。