衣川 沖の野 貞任以前の安倍一族居館跡 

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衣の関から約6km西、衣川の上流域。陸奥を支配した安倍一族は俘囚の長・忠頼→陸奥大掾(国司三等官の大国での上位)忠良→前九年の役勃発当時の棟梁である頼良の三代80年以上に亘ってここに住み、後半生の頼良と貞任は勢力圏の拡大に伴って衣河の中流域、衣の関の北側に進出したらしい。
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館の敷地全体は高さ9mの台地で、南東に向って翼を広げた鳥のように見える事から舞鶴館、またすぐ東側で北股川と南股川が合流(地図)して衣川となる事から落合館とも呼ばれた、と伝わる。衣の関〜居館跡の概略図(別窓)も参考に。

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右:安倍一族累代の居館跡     画像をクリック→ 拡大表示
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南股川の対岸にある八幡神社では 頼義軍が安倍館を攻めた際に頼良軍が陣を構え、頼良軍が敗走した後には頼義が安倍氏平定を祈願している。頼義が安倍館を攻撃したのは天喜四年(1056)、頼義が官符(公文書)で「俘囚を集めて討伐軍を組織し、安倍頼時軍二千と二日間戦った。頼時は流れ矢を受け鳥海柵(とりみのさく)に戻って死亡した。」と報告している。
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陸奥話記に拠れば、前九年の役勃発当初は頼良と共に朝廷軍と戦っていた従兄弟の富忠(忠良の弟・忠世の子で奥六郡の北部を領有)が源頼義の甘言で寝返り、説得に赴いた頼良を仁土呂志辺(津軽・青森県東部)で奇襲し二日間戦った、その時に受けた傷が元で本拠の衣川に戻る途中の鳥海柵で没した、と。
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  ※鳥海柵: 規模は東西70m・南北80mで別名を弥三郎館、安倍館の20km北・東北本線金ヶ崎駅近く (地図鳥瞰図
共に別窓)にあり、貞任の弟・三郎宗任が守っていた。
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鳥海柵は北上川西岸に築かれた胆沢城(地図鳥瞰図、共に別窓)の北西3kmに胆沢川を挟んで対峙し、共に難攻不落を称した安倍氏の要衝である。
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  ※安倍忠世: 一応頼良の弟としたが、素性は明確ではない。安倍氏と婚姻関係にあった津軽蝦夷の俘囚と考える説もある。
いずれにしても武力で安倍氏を制圧できなかった頼義が策略を巡らした結果、と考えられる。
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【吾妻鑑 文治五年(1189) 9月27日】   前九年の120年後、平泉を落した頼朝はこの安倍一族の旧館跡を見物した。
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頼朝 は安倍頼時の衣河館跡を見て廻った。敷地だけが空しく残って秋草が数万坪を埋め尽くし、礎石は百余年の苔に覆われている。陸奥国を領有した頃の頼時はここに屋敷を構え、息子は井殿(盲目)・厨河次郎貞任 ・鳥海三郎宗任・境講師官照・黒澤尻五郎正任・白鳥八郎行任と女子は三人、全部で八人(併せて9人だけど?)の館が軒を並べ、郎従の家が周囲を囲んでいた。
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西は国境の白河の関まで10日の行程(約280Km)、東は外浜(津軽、同じく約280Km)まで同じく10日、その中間に(中国の函谷関のような)衣の関を設けた。左には高山が連なって右は大河に臨み、南北にも山並みが連なる。海陸の物産は豊かで、領地の周囲には桜を植えている。4〜5月まで雪が残るので駒形嶺と呼ぶ。官照の小松柵、成通(貞任後見)の琵琶柵などの旧跡はあの青い山々の先にあるという。


     

           左: 安倍氏の館は北股川と南股川を天然の防衛線に利用した要衝で周辺には古館・駒場の地名が残る。紀古佐美とアテルイが戦った古戸古戦場や頼家軍
(指揮官は 義家 か)に追われた 貞任 が胆沢の鳥海柵に向って逃げた一首坂(伝承)など、周辺には見所も多い。
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           中&右: 南側の道路から撮影。背後の段丘状の小山から裾野を含む全体が安倍氏の館だったと伝わっている。延暦八年(789)には征東大将軍が
アテルイと戦い、天喜五年(1057)には頼良軍が頼義軍を破り、康平五年(1062)には頼義軍が貞任軍を撃破した。
朝廷と蝦夷が三度衝突したのがこのエリア、つまり軍事上の要衝でもあった、という事か。

この頁は2022年 8月 9日に更新しました。