長者ヶ原廃寺・渡船場・八日市場・向舘の跡。 

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長者ヶ原廃寺跡は中尊寺の1km北に位置する。地元では秀衡の御用商人・金売吉次の屋敷跡、と伝わっていたが、昭和三十三年(1958)から始まった本格的名発掘調査で遺跡を囲む南北100mの強×東西90m弱の築地塀や土塁の跡・礎石、更に本堂・南門・西塔・大溝跡などが確認された。
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※金売吉次: 伝承に拠れば、16歳の 義経 を平泉に連れて来た御用商人の三條吉次季春と言われるが、信頼性は乏しい。一説に吉次は固有名詞ではなく奥州と京を往来した
商人たちの総称とも言われ、各地に墓などの史跡が残っている。栃木県壬生町の例は こちら(別窓)で。
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右:衣川の北側、奥州市に点在する史跡群      画像をクリック→ 拡大表示
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廃寺敷地の西北端から170m西にある渡船場跡は桟橋の痕跡が確認された遺跡で、砂岩に打ち込まれた直径60cm前後の柱穴が三列・180cm間隔で20ヶ確認された。これは単純に渡し舟が発着した水上交通の痕跡なのか、或いは衣川を利用した水運施設の跡なのかは資料が少なくて判らないらしい。柱穴のサイズと全体の規模から考えれば渡し舟のレベルではない。
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衣川は少し南で大きく蛇行しているため、接待館付近から長者ヶ原廃寺跡までは船運に比べて距離が半分以下になるから、荷駄で運ぶ方が合理的である。むしろ上流の安倍氏館と長者ヶ原の寺を結ぶ道路が衣川を渡る地点だった可能性が高い、と思う。
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前九年戦役の顛末を描いた 陸奥話記 (wiki) の冒頭部分には「奥六郡を支配する蝦夷の首領 安倍頼良が勢力を拡大して略奪などを繰り返し衣河の南まで勢力を拡大した」との記述がある (陸奥話記の概略は 奥州の悲劇@ (別窓) の後半にも掲載してある)。
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前九年戦役が始まった永承七年 (1052) 春の時点では安倍一族の居留地は衣河が南限だった、衣河以北の物産や年貢が渡船場跡を経由して衣河→ 北上川→ 多賀城国府に運ばれていたと考えるのも可能だろう。
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八日市場は更に800mほど上流の衣川東岸にあった市場の跡、向舘は安倍一族が住んだ館の一つで、頼時(初名は頼良、安倍貞任の父)を裏切った安倍富忠の居館、或いは袈裟御前の生母(衣川殿)の居館とも伝わっている。どちらもロマンは豊かだが裏付ける史料に乏しいのは残念だ。
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  ※安倍富忠: 奥六郡北部(青森県東部から岩手県北部にあった糠部郡)を領有した俘囚長忠世の子。安倍一族の棟梁頼時の従兄弟説もある(単なる婚姻関係かも)。
前九年の役が勃発した永承七年(1052)当初は頼時と共に 源頼義軍と戦ったが、天喜五年(1057)に頼義の甘言に乗って寝返り、説得に赴いた頼時を仁土呂志(下北半島南部の小川湖付近か)で襲って重傷を負わせた。頼時は平泉に撤退する途上で没し、安倍一族は貞任が棟梁を継承した。
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  ※袈裟御前: どこまで本当か不明だが平家物語と源平盛衰記に載っている絶世の美女で、鳥羽上皇の護衛を任務とする北面の武士だった渡辺党の源渡の妻。
渡の同僚には後の 西行法師(当時は佐藤義清)や 文覚上人(当時は遠藤盛遠)や 平清盛 など凄いメンバーがいた。
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遠藤盛遠は袈裟御前に横恋慕し最後には「お前の母を殺し私も自殺する」と言い出す始末で、困り果てた袈裟御前は「それならば夫の寝所を教えるから洗い髪を目印に殺してくれ」と申し出る。盛遠はその言葉通りに寝所を襲って殺すのだが、それは身代わりになった袈裟御前だった。彼女の母親が「奥州衣河」出身で名を「衣河殿」、衣の娘だから「袈裟」って本当か?る語呂合わせか? 盛遠は袈裟御前の首を抱いて彷徨った末に出家し荒行を重ねて文覚を名乗ったという。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 9月27日】   平泉を征した頼朝、遺跡を巡覧
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頼朝は安倍頼時の衣河遺跡を見物して巡った。秋の草が数十町の敷地に空しく茂り、百余年の苔が礎石を覆っている。
頼時が陸奥国一帯を支配していた頃に屋敷を構えていた場所である。男子は盲目の井殿、厨川次郎 貞任、鳥海三郎宗任、境講師官照、黒沢尻五郎正任、白鳥八郎行任らで娘は三人、彼らの屋敷が軒を並べ郎従の家が囲んでいた(左フレームの藤原氏の系図を参照)。
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西は白河の関まで行程10余日・東は外浜(青森)まで同じく10余日の行程で、その中央に衣の関を構えた。左には高い山が連なり右には大河、南北には同じく峰が続いている。海陸の物産は豊かで、周辺の30余里に桜を植えて並木にしている。雪は4〜5月まで消えず、これを駒形嶺と呼ぶ。その麓には北上川が南に流れ下り、衣河は北から流れて合流している。官照の小松の柵、成通(貞任後見)の琵琶の柵などの旧蹟が山々の彼方に点在している。

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頼時が陸奥国一帯を支配していた頃の屋敷は衣川地中流域の衣川沖の野 (地図)にあった。官照の小松の柵は一関市萩荘字谷起島 (地図) に、成通の琵琶柵は衣川川端 (地図) で、
方向がバラバラなので分脈と合致しない。
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  ※桜並木: 吾妻鏡は桜の場所が記載されておらず、館の周囲か衣川周辺かと考えたが、駒形嶺麓の桜並木か。平泉を訪れた西行の和歌がヒントになる。
ききもせず 束稲山の さくら花 吉野の外に かかるべしとは...束稲山の桜、吉野の他にこれほどの桜の名所があろうとは。
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  ※駒形嶺: 束稲山(596m。経塚山(秀衡が経典を埋めたと伝わる)・音羽山・束稲山の総称)を差す。中部地方の白馬や駒ケ岳と同様の、駒形の残雪で
田植えの時期を判断する風習から生まれた呼称だろうか。南西の観音山中腹には初期日本刀(舞草刀)の鍛冶工房跡が出土している。
舞草刀についての詳細は衛府の太刀(別窓)にコメントを記載してある。
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  ※西行法師: 藤原秀郷から九代目の子孫で元は北面の武士、23歳で出家した漂泊の歌人。芸術と仏教の両面で後世に大きな影響を残した。
藤原秀衡 と親しく交わり、平泉には二度訪れて滞在している。頼朝とも面識があり、拝領した銀の猫を道端の子供に与えた逸話も有名。
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  ※小松の柵: 衣の関近くにある小松館跡と混同しがちだが、8kmほど南の一関市谷起島(地図)を差す。
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  ※琵琶の柵: 衣川上流、安倍館の南(地図)にある。近くには古戸古戦場や一首坂など安倍氏関連の史跡が点在する。

ついでに、本題からは外れるが西行法師と頼朝の関わりを抜き出しておく。どう読んでも西行の方が大物の風格を醸し出している。偶然の訪問を装っているが東大寺再興の
勧進iに協力を受けた謝礼かたがた、更なる追加を求めて鎌倉を訪れたのだろう。元暦二年(1185)には東国から米一万石・金千両・上絹千疋が届き、やがて奥州藤原氏
滅亡後の建久六年(1195)3月には頼朝も出席して大仏殿の落慶供養が行われることになる。
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【吾妻鏡 文治二年(1186) 8月15日】   西行法師との一期一会
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頼朝 が八幡宮に参詣した。一人の老僧が鳥居の近くにいたため 梶原景季に素性を確認させると、今は 西行 と名乗っている佐藤兵衛尉憲清法師だった。
参詣後に落ち着いて和歌などを語り合おうとの事になり、頼朝は歌道や弓馬について色々と尋ねたが、西行が語るには、保延三年(1137)8月に出家した際に先祖の
藤原秀郷 以来九代に亘り伝わった兵法書は焼いてしまった、罪業の原因だから心に留めず忘れ去った。和歌は花月に心を動かした際に僅か31文字を作るだけで要旨は
全く知らない、と答えた。しかし質問を繰り返すうちに弓馬について詳細を語ってくれたので、筑後權守 藤原俊兼 がこれを書き留めた。歓談は終夜に及んだ。
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【吾妻鏡 文治二年(1186) 8月16日】
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引き止めたのだが、西行は正午に退出、頼朝は銀製の猫の置物を贈った。西行はこれを門の外で遊んでいた子供に与えた。重慶上人 (東大寺再興を主導した僧) の委託
を受け東大寺再興の資金を勧進するため奥州に向かう途中で鶴岡八幡宮に立ち寄ったもので、平泉の秀衡は西行の同族である。
  (もちろん計画的な訪問である)
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  ※銀製の猫: 文治五年(1189)8月22日の吾妻鏡に藤原泰衡 館の焼け残った倉庫から多くの宝物が見付かった中に銀造りの猫など数え切れない宝物があった」との
記載がある。西行が門前の子供に与えた」のは吾妻鏡編纂者の想像で、平泉まで持ち込んだのが史実かも知れないね。


     

           左: 東側から長者ヶ原廃寺跡を撮影した画像。敷地の先が衣川、左の人家側が南門で本堂からの延長線上に中尊寺関山の頂上がある。
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           中: 廃寺の敷地の南隅から北側を。山裾に見えるのは東北道、山並みを越えた15km北には胆沢城跡や鳥海柵跡などの史跡が残っている。
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           右: 南々東の中尊寺・関山の方向。山並みが終る左隅の更に左が衣川と北上川のに合流点、その延長線上に束稲山がある。
撮影した2006年は発掘調査が始まって間もない頃で、数ヶ所にトレンチ(試掘坑)が見られる程度だった。

     

           左: 廃寺の至近距離、水上交通の施設と推定される渡船場跡遺跡。整備されていないため川原には降りられず、桟橋の杭跡は確認できない。
直径60cmの杭跡が20ヶ所という規模から考えると単純な渡し舟ではなく、宗教施設を中心にした物流拠点と判断すべきなのだろうか。
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           中: 八日市場跡は長者ヶ原廃寺から衣川沿いの800mほど上流の東岸で、六日・七日市場に比べると最も北西(安倍氏館旧蹟寄り)にある。
現在は農地と雑草地があるだけで遺構は全く見られない。
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           右: 向舘跡も八日市場と同様に遺構は見られず、訪問当時は発掘調査の雰囲気もなかった。伝承では奥六郡の北側(青森県東部?)を領有した
安倍富忠 (貞任の叔父) の居館とされる。または袈裟御前の生母・衣川殿の居館とも言われるのが面白い。

この頁は2022年 8月 11日に更新しました。