衣の館(衣の縦糸)は綻びにけり 一首坂 

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一首坂の地番は奥州市衣川区古戸464付近(地図)、目印は衣川中学校となる。陸奥話記に拠れば...
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康平五年(1062)9月6日、清原武則の兵は衣の関の東にある藤原業近(貞任の弟宗任の腹心)の柵に潜入して焼き払った。混乱した貞任軍は衣の関を放棄して
鳥海柵(20km北の金ヶ崎町)に逃げ、関を突破した武則・頼義連合軍は翌7日には白鳥村に入り、大麻生野柵と瀬原柵を落した。
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官軍は衣の関を突破してから二手に別れ、清原武則源頼義 が率いる主力部隊は東に進み北上川沿い(現在の東北本線ルート)を北上、衣川河口から1km北の瀬原柵 (地図)を落し、更に2km北の白鳥の柵(貞任の弟・白鳥八郎則任の居館(地図))を落し、更に5km北の大麻生野柵(地図)を落して鳥海柵(地図)に迫った。一方の義家は衣の関の敗残兵を掃討しつつ、北に逃げた 安倍貞任 を追尾した。衣の関から一首坂までは僅かに6km、1時間の距離に過ぎない。
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父祖伝来の安倍館から北の山を越えて鳥海柵に向うのが貞任の選んだルートである。一首坂での「義家と貞任の遣り取り」の真偽は兎も角として、義家軍と貞任軍が安倍館の近く
(つまり一首坂の近く)で接触したのならば、7日に北上川沿いの柵を落した軍勢の別動隊と考えるべきだろう。
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さて...一首坂での「義家と貞任の遣り取り」を初めて描いたのは「古今著聞集」、鎌倉中期の下級貴族・橘成季(従五位下)が編纂した説話集である。成立は建長六年(1254)頃、後三年の合戦から200年が過ぎて書かれたから、史実と考える方が馬鹿らしい。虚実をミックスして描く特殊な才能は認めるべきだが、水戸光圀(黄門さん)が編纂した大日本史(成立は1670年代初頭から)でさえ、「好事家の所産を取り上げる必要もない」旨を書き加えている。
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  古今著聞集  武勇第十二
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伊予守源頼義朝臣は貞任・宗任らを攻めるため陸奥で十二年の春秋を送った。鎮守府を発って秋田の城に移ったが雪が降りしきり、軍兵の鎧は全て白い布のようになった。衣川の館は川岸が高いため楯を担いで兜に重ね筏を組んで攻め戦ううちに貞任らは耐え切れず、ついに城の裏側から逃げ出した。
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八幡太郎義家は衣川に追い立てて攻め、「逃げるとは卑怯、言いたい事があるからちょっと引き返せ」と声を掛けると貞任が振り返ったので「衣のたてはほころびにけり」と言った。貞任は馬の轡(くつわ)を緩め兜を振り向けて「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返した。
義家は弓から矢を外して引き返した。この激しい戦闘の中で風流な所作であった。
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衣川の館が落ちた康平五年9月6日は西暦の10月6日だから雪はまだ早いし、衣の関から一首坂までは直線で4km以上離れている。早熟の時代とはいえ満23歳の義家に優雅で余裕のある対応ができる筈もない。橘成季は頭の中でストーリーを創り出し、その後の誰かが衣川から前沢に向う峠道に二人の遣り取りを当て嵌め、それが史実の如くに一人歩きした、という事。まぁ史実と物語の区分を自覚しつつ観光は観光として楽しむべき、かも知れない。
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ただし、戦闘の推移から考えれば貞任主従がこの峠道を越えて鳥海柵を目指した可能性は否定できないと思う。


     

           左: 一首坂を含む鳥瞰図。「古館」は父・頼良の没後に貞任が築いた新しい柵で、この左奥に安倍氏代々の館がある。表示した「古戦場」は奈良時代に
紀古佐美がアテルイと戦った陣営の旧蹟で、「駒場」では安倍氏が数百頭の馬を揃えた、と伝わる。前九年の役を語るには欠かせない場所だ。
周辺は衣川上流地区の中心部で公共施設も多く、駐車場所には不自由しないのでじっくりと歩きたい。
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           中: 中学校の横を抜けて緩やかな登り坂を山裾に向かう。平泉周辺の史跡は案内表示が充実しているので道を間違う懸念は要らない。
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           右: 一首坂に向う小道に蹄鉄を埋め込む...気の利いた発想をしたなとは思うが、実際に日本で蹄鉄を使い始めたのは明治時代以降。在来種の日本馬は
西洋種に比べて爪が硬いため、蹄鉄の必要度は低かったのが事実である。


     

           上: 沢水の流れに沿って義家石とか貞任石とか二人の歌碑とか史跡案内とか、色々と置いてある。平泉が脚光を浴びたため衣川の上流部も
かなりメジャーな観光地になったから、今更の様に色々と追加し、地元の有志が定期的な除草や清掃をしているらしい。
ローカルニュースでは、観光振興と地域交流を目指して地元に設立したNPO法人が定期的なイベントを開催している、とも伝えていた。
考えてみれば、義家石や貞任石って熱海の海岸にある「寛一とお宮の銅像」と同じだな...などと考えるとちょっと寂しい。

この頁は2022年 8月 9日に更新しました。