衣川中流域に南下した安倍貞任の居舘跡 

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このサイトには関係ない事だが、前回は総理の職を(体調不良と称して)投げ出した自民党総裁の 安倍晋三 は俘囚長・安倍一族の末裔を称しているらしい。戦死した貞任ではなく、
降伏して伊予(愛媛)〜筑前(福岡)に流された次弟・宗任の傍流が長門(山口県)に土着した。安倍家は代々大庄屋の家柄で江戸時代には酒造と醤油の醸造で財を成した。
晋三の父・晋太郎は東京に移ったが、祖父の安倍寛は山口県日置村の出身である。

右:頼良と貞任親子が衣川下流へ進出        画像をクリック→拡大表示
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安倍貞任 は大和朝廷に抵抗した陸奥の雄なのだが、同じ血脈だとしても晋三の方は政治家にあるまじき「ヘタレ」で安倍一族の恥だろう。しかも「お友達内閣」が原因で失敗したくせに、狡賢にも人事権を拡大強化して反対勢力を支配する卑劣な戦略で再び「お友達内閣」を強化再生した。要するに、クズである。
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閑話休題。個人的には安倍一族の家系が土着の蝦夷(主としてアイヌ民族)の血とどう関わっているのかを知りたいのだが、アイヌには文字を使って記録する習慣がなく、僅かな口伝の紹介に頼るしかない。貞任の父が頼良・その父が忠良までは辿れるけれども更にその先を説明する明快な根拠はない。
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ずっと昔に初めて東北を旅したとき、貞任がせめてクォーターのアイヌ民族だったらなぁ...などと思った。
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強力な大和政権に征服された弱小民族だ、覇権主義と中華思想に固まった中国に抵抗し続けるチベット民族と同じだ、などと思ったのだが、陸奥話記が伝える貞任の容姿が「色が白くて肥えている」だったため、若干の失望を感じたこともあったっけ。今よりも遥かに純粋だった若き日の思い出。今でも「純粋」を目指してはいる、けれど。
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陸奥話記は「父の頼良と貞任が館を南に設けたことが「衣の関を越えて勢力範囲を広げる意図あり」と判断された」と書いている。平泉全体から見ると衣河の西なのだが、従来の安倍氏館から見ると南東に4kmも移動しているので、確かに「南侵の気配」と見ることもできそうだ。勢力を蓄えるに従って、より豊かな北上川流域の魅力に惹かれたのだろう。

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           左: 貞任館の周辺。衣川を挟んで東側には貞任の叔父に当る僧・良照の小松館(東西60×南北160m)があり、単独での進出でなさそうだ。
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           中: 水田の南西角に館跡の標識が建つ。頼良が鳥海の柵で没したのは天喜四年(1056)、その10年前の永承元年(1045)頃、貞任と共に
衣川上流の要害に構えた累代の館からここに移ったらしい。敷地の東に幹線道路が南北に通じる要所である。
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           右: 初めて訪問した頃は静かな水田地帯だった。平泉の人気が高まった昨今は交通の便が悪いこの辺も観光客が多くなったらしい。嫌だねぇ。

この頁は2022年 8月 9日に更新しました。