【吾妻鏡 文治五年(1189) 9月17日】 頼朝が命じた 秀衡館に関する報告
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金色堂の西方向※、無量光院の北側に館(平泉の館と号す)を並べ、西木戸に嫡男 国衡 の家と四男隆衡の家が隣接する。三男忠衡の家は泉屋の東※にある。
秀衡 は無量光院東門の前に伽羅御所と呼ぶ館を構えて通常の居宅とし、泰衡 がこれを相続して居館としていた。 .
後三年の役で異父弟の
家衡とその叔父
武衡 を滅ぼした
清衡 は奥六郡の覇権を握り、それまで本拠にしていた豊田館
※から平泉へ進出して居館を構えた。吾妻鏡が「金色堂の西、無量光院の北側に居館を並べていた」と書いた北上川西岸の「平泉館」、後の柳之御所である。
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清衡を相続した
基衡 も
秀衡 も、本拠を平泉館に置いた。秀衛が鎮守府将軍になった嘉応二年(1170)までは単なる私邸として、それ以後は政庁を兼ねる事になった。陸奥守に任じた養和元年(1181)以後は柳之御所を再整備して正式な政庁とし、更に秀衡は私邸として柳之御所の南西に伽羅御所を構えた。
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※泉屋の東: 柳之御所資料館の南(平泉駅の東)に泉屋の地名(
地図)があり、吾妻鏡に書かれた「在于泉屋之東」はここを指すのだろう。
忠衡は秀衡の三男(国衡の同母弟・泰衡の異母弟)で妻は信夫庄司
佐藤基治 の娘。秀衡の遺言を守って
義経 の庇護を主張していた。文治五年(1189)閏4月30日に義経が殺され、同年6月26日には忠衡も殺されている
※。
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後に泰衡は鎌倉勢との主戦場として厚賀志山防塁を築いたが、基治主従はこの防衛戦に加わらず、石那坂(本拠の飯坂大鳥城説あり)で独自の防御戦を試みた。主な理由は本領を放棄して北側の厚賀志山防塁で戦う事への不満だが、泰衡に娘婿を殺された遺恨もあった、と思う。
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忠衡の館は衣川北岸の泉ヶ城とも伝わっており、ここは前九年の役で貞任を後見した成道の居館跡で、安倍軍が衣川を放棄して退却した藤原業近の柵と隣接(同一の可能性あり)している。
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※忠衡追討: 吾妻鏡 文治五年6月26日
「奥州で兵革あり。泰衡が宣下に従って弟泉三郎忠衡(23歳)を殺した。義経に味方した結果である。」と。
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※豊田館: 柳之御所の北27kmの奥州市江刺区岩谷堂(
地図)に史跡公園がある。近くには歴史テーマパークの
えさし藤原の郷(公式サイト)がある。
良く史料を吟味して造り上げた施設で、遠野の
伝承園(公式サイト)と並んで費用対効果の高い素晴らしい施設として紹介しておきたい。
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秀衡の私邸・伽羅御所は吾妻鏡に記載され地名としても残っているが、柳之御所の名は史書には存在しない。平泉駅から500mほど北にある柳之御所は、その地名が近世から館の通称名として使われていた。昭和六十三年から始まった国道4号の平泉バイパス建設工事の際に大規模な遺構が出土したため計画を東側にスライドさせ、北上川沿いを通過するルートに変更された。四半世紀を費やして発掘調査がほぼ終了した遺跡全体の面積は約10ヘクタール、その半分ほどが広大な史跡公園となる予定らしい。既に館の敷地にあった池や堀・建物跡が復元も進められている。
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平泉館の敷地は北上川本流と猫間が淵(浅い沼か湿地帯、古流路の跡らしい)に挟まれて北から南に突き出した標高25mほどの河岸段丘で、東西140〜200m×南北800mのエリア。全体に堀を二重(外側の巾は3〜4m、内側は12mほど)に巡らして北上川の水を引き込み、物流には主として水運を利用していた、と考えられる。猫間が淵の西側には無量光院を配して西方浄土を表現し、南側の伽羅御所からは無量光院の北に中尊寺を遠望する配置だった。
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外部との通路として 中尊寺方向へ向かう北西の木戸、無量光院と通じる西の木戸(土手)、そして伽羅御所と通じる南の木戸が設けられていた。地図上では高舘の南麓から高舘橋の南側まで、バイパスと東北本線に挟まれたエリアの東半分と考えると判りやすい。