辛うじて窮地を逃れた堀口の合戦 

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石橋山合戦で惨敗した頼朝主従が追撃する大庭勢を食い止めようとした堀口の合戦場所の正確な位置は不明である。一つにはしとどの窟から東に下った幕山公園上流部分とする説、もう一つは新崎川河口から1200mほどの斜面にある瑞應寺の付近と考える説である。

右:石橋山から逃れた頼朝は更に土肥堀口で惨敗   画像をクリック→拡大表示
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鍛冶屋の伝承を追い掛けてみると瑞應寺の北側に聳える椎の木周辺に「陣場の沢」の古名があり、ここから少し南西に下った海沿いの湿地帯が堀口合戦場だったらしい。現在の地形図を見ると瑞應寺の南西は標高150mの高地だから計算上は合致しないが、瑞應寺に近い湿地帯と考えれば新崎川の下流域だろう。東海道在来線の南側、瑞應寺から500m南なら標高25m前後、平安末期に海沿いだった可能性は高いが...
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残念ながら「堀口」の地名が現存せず、資料や痕跡もないため全ては推定の域を出ない。吾妻鏡も 「頼朝は椙山内の堀口辺りに防御線を構えた」 と書いているのみ。土肥實平の父で相模中村党の総帥中村宗平は(老齢か)石橋山〜堀口合戦に加わっていないが、嫡子重平(早世)の子・景平と盛平(戦死か?)が参戦した。
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石橋山で討死した 佐奈田義忠 の実弟(岡崎義實 の二男で、後に宗平の三男 土屋宗遠 の養子になった 義清 が堀口合戦について語った内容が面白い。計算高くて危険は巧みに避ける、時政にはそんな性格が見て取れるから、たぶん義清の言い分が正しい。
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敵の主力は大庭景親俣野景久兄弟だけで、他には本気で戦うつもりの武者は居なかった。こちらの作戦は岡崎義實が頼朝を守りながら後退して敵を誘い出し、北條時政が正面で防戦している時に中村と土屋が敵の側面を衝いて壊滅させるつもりだったが、臆病風に吹かれた時政が頼朝を守る振りをして逃げてしまった。これが堀口合戦で敗北した原因で、北條は全く許せない一族である。
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いずれにしても石橋山の北側が大庭景親の勢力範囲である事を考えると、頼朝が逃げ込める場所は實平所領の土肥郷か、あるいは源氏と多少の縁で繋がる箱根権現か、それとも舟で三浦または安房国を目指すか、その程度の選択肢しか残っていなかった筈だ。おそらく頼朝主従は海岸から舟で落ち延びようとして土肥に向ったが大庭勢を振り切って船出できるほどの余裕がなく、追い詰められて山に入った...と思う。
とりあえず地理に詳しい 土肥實平 の案内で山中に隠れ、包囲網が緩んだ隙を見て海岸に抜け出し味方の多い安房国に逃れよう、と。


     

           左: 新幹線のガード付近から新崎川の上流を。右に幕山、左は土肥城山の急峻な東麓、撮影場所一帯が堀口だろう。堀の口、だからね(笑)。
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           中: に向う宮ノ入橋から下流を撮影。ターンパイクに近い源流部から吉浜まで約5km、高低差500mを流れ下る。
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           右: 新幹線の下に並ぶ石地蔵の一角を背にして線路沿いに左へ進むと狭い道を抜け、合戦場跡と伝わる黄檗宗(禅宗)瑞應寺に至る。


     

           左: 新崎川近くから瑞應寺方向、墓地の上を通る農道のガードレールが見える。景親軍に追われた頼朝主従が山に逃げ込んだ付近か。
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           中&右: 瑞應寺は禅宗の黄檗(おうばく)宗に属する。枝垂れ桜で有名な小田原の 長興山紹太寺(公式サイト)と同じだが瑞應寺の縁起は古くない。
一説に開山は鉄牛和尚ともされている。黄檗宗は江戸時代初期に中国から招いた臨済宗の僧・隠元隆gから始まるから、同じ禅宗でも
平安時代に興った臨済宗や鎌倉時代に起こった曹洞宗と違って歴史はかなり新しい。
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著名な寺としては信玄の墓所がある甲斐の乾徳山恵林寺、武田残党の引渡しを拒んだ快川和尚が織田軍の焼き討ちを受けた寺である。
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」の偈を残して焼け死んだ;歴史で知られている。このサイトのテーマ・鎌倉時代
とは無関係で、古い中国語で読経すること・精進の普茶(ふちゃ)料理を供すること、その程度の知識は覚えておきたい。
総本山は宇治にある黄檗山萬福寺(公式サイト)、JR奈良線と京阪の黄檗駅前にあり、もちろん駅名は寺の名を転用している。


     

           左: 新崎川の高架を過ぎた下りの東海道新幹線は瑞應寺の横で城山トンネルに入る。一瞬だけ境内の豊かな緑が見えるかも知れない。
県道からの導入路が狭いので少し苦労するが、本堂の横には広い駐車場が設けられている。帰路は右へ下れば県道に抜けられる。
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           中: 斜面に造成された雛壇式の墓地。瑞應寺の開創は承応年間(1652〜1654)以降だから、堀口合戦当時は椙山に続く山林だった。
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           右: 瑞應寺墓地の北側、通称・陣場の沢(椎の木沢)の森。伝承に拠れば合戦場は南側の湿地帯で馬は入れず、頼朝勢は馬を椎の木沢に放して
戦った。数日後に 岩浦 を目指した際に飼い主の気配を感じた馬が騒ぐのを防ぐため椎の木沢を避けた、と言う。


     

           上: 瑞應寺の墓地を抜けて蜜柑畑斜面の農道から景観を。左側に新幹線、その奥中央に五郎神社の社叢、背景左側に 小道地蔵の旧蹟自害水のある
南郷山(611m)、中央の東海道線に貨物列車が首都圏へ向かい、右手には吉浜海岸が見える。
吾妻鏡の治承四年(1180)8月24日に書かれた以下の文章は瑞應寺の付近だろうと推定できる。
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  堀口に布陣し、〜中略〜 加藤光員・佐々木高綱・天野遠景・同光家・堀親家・同助政らも馬が射られて倒れる中で轡を並べて防戦し、
  頼朝も馬を廻して弓を取り多勢を射殺した。

この頁は2022年 8月 1日に更新しました。