源平盛衰記には「自鑑水・自害水」の記述はない。土肥の大椙や堀口合戦場と同じく、湯河原の鍛冶屋地区に残る伝承である。
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町営の「さつき公園」から
小道地蔵堂(別窓)の方向へ登らず、左側の白銀林道を南郷山南麓を西へ進むと3km弱で「自鑑水」の標識が現れる。この道路脇に駐車して荒れたハイキングコースを500m登り杉林を抜けた左が「自鑑水」、敗残の
頼朝 が乾いた喉を癒そうとして惨めな姿を水に映し
「源氏の大将軍がこのザマか」と嘆いて自刃しようとした、それを
土肥實平が制止したと伝わる場所である。当初は自害水、後には余りに生々しいので自鑑水と改めたという。
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湧き水ではなく林間に降った雨水が溜まっている窪地なので、晴天が続くと干上がってしまう。すぐ先には「大多賀窪」と呼ばれる更に広い窪地があり、鍛冶屋地区の伝承ではここに繁っていたススキの穂が頼朝の目を突いて傷つけた。頼朝は
「大多賀窪の鬼すすき 丈になりても 穂は咲かず」と詠んだという。その後のススキは(頼朝のクレームに従って)穂の数が少なく、春から秋にかけては牛馬の餌にする草刈り場となっていた、というお話。
わずかな人数となった頼朝主従は@の石橋山から南へ逃れ、Aの堀口で追っ手の
大庭景親 軍と戦い、辛うじて土肥の椙山へ逃げ込んだ。その後のルートの詳細は明らかではないが、小道地蔵堂で僧純海の機転で穴倉に匿われた。純海は追手に自白を迫られながらも頑として頼朝の所在を言わなかったため殺されている。追手が移動した後に頼朝主従は南郷山を経て西へ、箱根方向を目指したらしい。
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南郷山の西斜面にある小さな池で一息つき喉を潤したとき頼朝は水に映った己の敗残の姿に絶望し最早これまでと自害を考えたが、先導していた実平が「土肥の椙山の隅々まで私の知らない場所はありません。敵の追及が緩むまで幾日でも隠し通します。これぐらいで源氏の棟梁たる者が志を捨ててはなりません。」と諌め励ましたと伝えられる。その後は
しとどの窟(別窓)や
箱根権現(別窓)などを逃げ回り、真鶴半島「岩海岸」から小舟で安房を目指して漕ぎ出した。