一説に、老婆は
三嶋大社 へ百日詣でに通う
頼朝 に毎朝餅を献上しただけでなく、
蛭ヶ小島を訪れて献上したこともあった、と。
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これは捏造が過ぎる。史料にあるのは「頼朝の伊豆国流罪」で、「蛭島」や「蛭ヶ小島に流罪」は後世の脚色と考えるべき。頼朝流罪当時の伊豆は摂津源氏
三位頼政の知行国で国司(伊豆守)は嫡男の
仲綱、現地に派遣された目代は源仲成(仲綱の乳母子)である。頼朝は彼ら同族の庇護を受けていた筈で、一般の罪人同様の処遇を受けたとは考えにくい。当然ながら目代も国司も、頼朝の監視を担当した
北條時政や
伊東祐親より公的な立場は上である。
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ただし、優遇は治承四年春の頼政挙兵&敗死まで。その後の国司は
平時忠 で目代は
平兼隆(僭称の可能性あり)だから、頼朝の周辺環境は一気に悪化した。
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頼朝が百日詣を思い立ち実行したのはいつか、更に言えば源氏再興について具体的に考え始めたのは何歳の頃なのだろうか。下級貴族(史料では正六位)の三善康信(頼朝の乳母の妹・ただし数人いる乳母の誰だったか不明)が京の情勢を月に三回も報告していたのは良く知られている。平家全盛の頃に、慎重で猜疑心の強い性格の頼朝は挙兵など頭になく、幼少の弟以外は全ての肉親が死に絶えた平治の乱の恐怖はまだ生々しかった、と思う。
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少なくとも平家の勢いに多少の影が見え始めた安元三年(1177)前後、つまり頼朝の身辺で言えば
政子に娘(
大姫)を産ませた頃までは挙兵の意思は皆無だったと思う。
曽我物語が千鶴丸誕生(承安元年・1170年・頼朝24歳)の頃を描いた姿が、多分 流人頼朝の本音だろう。
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【 曽我物語 巻ニ 若君の御事 】.
頼朝は (子供の誕生を) 大いに喜んで千鶴丸と名付けた。「勅勘を受けて辺鄙な地に住んではいるが男子が産まれたのは嬉しい。 (千鶴丸) 15歳になったら秩父・足利・三浦・鎌倉・小山・宇都宮らと相談し、平家に願い出て自分の将来を含めて処遇を願い出てみたい。」と思い至った。
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結論としては、
文覚 が伊豆に流された承安三年 (1173) には挙兵の意思なし、安元三年 (1177) に鹿ヶ谷事件が起きて
清盛 の政権が揺れた頃に「あれ?ひょっとすると...」と思い始め、治承三年 (1179) 11月に清盛と対立した
後白河法皇 が強制的に幽閉された時に波乱の予感を強め、翌・治承四年4月末に
以仁王 の令旨を受けた前後に挙兵を決意し、同年6月19日に
三善康信 の警告を受けて諸国の源氏追討令を知り、決起せざるを得なくなった...そんな推移だろうか。
従って「平家追討の百日詣」が事実だとすれば治承四年に入ってから、更に限定すれば令旨を受けてからだろう。当然ながら蛭ヶ小島で暮らしている筈はない。
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成願寺の現在の宗派は曹洞宗。創建は鎌倉時代初期で、当初は真言宗か。頼朝は
「老い先が短いから阿弥陀仏を拝んで余生を送りたい」と願った老婆のために阿弥陀仏をの像を与え一宇を建立して恩に報いた。老婆は
「わが願い成れり」と喜んだ、だから成願寺。