極楽寺坂切通しに建つ紫陽花の名所 成就院 

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参道の両側を彩る紫陽花の名所として知られた成就院は極楽寺の創建よりも昔に遡る。元々は平安時代の初期に鎌倉を訪れた 空海(弘法大師)が数日逗留して
護摩行を修したと伝わる霊跡だった、と伝わっている。ただし、弘法大師伝説は全国各地に乱立しているから信頼を置くことはできない。
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寺伝に拠れば、承久元年(1219)に 北條泰時 が京都から高僧(誰かは不明)を招き、真言宗の寺院を建てて普明山法立寺成就院と称した。
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これは当時の二代執権 義時 が没して泰時が鎌倉幕府の執権職を継承する貞応三年(1224)の5年前、36歳の頃である。従って正元元年(1259)創建の
極楽寺より40年も前の創建になるが、泰時は36歳の時に真言宗の成就院を開き、50歳の嘉禎三年(1237)には臨済宗の 常楽寺(別窓)を開いて自らの
菩提寺にしている。この間の変化には泰時の信仰心の変化や鎌倉仏教の変遷が感じられるのも面白い。


     

              上: 鎌倉十井の一つ、星月夜の井(ほしつきよのい。星月の井、星の井とも)。この辺は樹木が生い茂る暗い道で、昼間でも井戸の底に星が写って
見えたためこの名が付いた、と伝わる。里人が誤って包丁を落としてから見えなくなった、とも。
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大正時代まではすぐ横の茶屋が極楽寺坂切通しを往来する旅人に井戸水を売っていたらしいが水道の普及により徐々に廃れて閉鎖となった。
鎌倉青年団は極楽寺坂切通しが開通した翌年に「星月井の碑」を、5年後に「極楽寺坂の碑」を建てたことになる。
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【星月井】  星月夜井ハ一ニ星の井トモ言フ鎌倉十井ノ一ナリ 坂ノ下ニ属ス往時 此付近ノ地老樹鬱蒼トシテ昼尚暗シ 故ニ称シテ星月谷ト曰フ
後転ジテ星月夜トナル 井名蓋シ此ニ基ク 里老言フ 古昔此井中昼モ星ノ影見ユ 故ニコノ名アリ 近傍ノ婢誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以来 星影復タ
見エザルニ至ルト 此説最モ里人ノ為メニ信ゼラルルガ如シ 慶長五年六月 徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ 特ニ此井ヲ見タルコトアリ 以テ
其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ 水質清冽 最モ口ニ可ナリ  昭和二年三月建  鎌倉町青年団


     

              左&中: 「星の井」横の高みに虚空像堂が建っている。成就院が所有し管理する境外仏堂(正式には明鏡山圓満院星井寺)である。
東国布教の途中で立ち寄った僧 行基 が井戸の底から見付け出した光る石を虚空菩薩の化身と考えて堂を建て祀った、と伝わっている。
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本尊は行基が彫ったと伝わる虚空蔵菩薩、宇宙の如き無限の智恵と慈悲を持つ菩薩である。昔は35年に一度だけ開帳する秘仏だったが現在は
1・5・9月の各13日に開帳されている。もちろん成就院と同じく真言宗大覚寺派の寺院である。
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              右: 虚空像堂の前から極楽寺坂切通しを。左側に成就院の墓地、石段の先に成就院東側参道の門が見える。「鎌倉時代を歩く」のだから当時の極楽寺坂が
「星の井」の前から急な登りとなり、成就院の山門付近で峠の最高地点を越していた姿を思い浮かべよう。


     

              左&中: 成就院の参道から極楽寺坂と石碑を撮影。石碑建立は昭和七年(1932)、極楽寺坂切通しの開削が完成したのは昭和元年(1926)だから、
開通して間もない頃に建てたことになる。鎌倉町青年団も嬉しかっただろうね。
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              右: 極楽寺坂の石碑  此所往古畳山ナリシヲ 極楽寺開山忍性菩薩 疏鑿シテ一條ノ路ヲ開キシト云フ 即チ極楽寺切通ト唱フルハ是ナリ
元弘三年ノ鎌倉討入リニ際シ 大館次郎宗氏 江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ  大仏陸奥守貞直ハ
鎌倉軍ノ大将トシテ此所ヲ堅メ相戦フ     昭和七年三月建  鎌倉町青年団


     

              左: 成就院の山門近くから、虚空地蔵堂の前を登って来た長い参道を振り返る。背景は美しい弧を描く由比ヶ浜、参道両側の紫陽花が開く頃には
極楽寺坂の名に似合わない地獄の混雑を呈する。個人的には、花と古都を作為的に結び付けるのは嫌いなのだが...
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              中: 参道から更に石段を登って成就院山門(江戸時代末期の建立)に至る。極楽寺坂合戦の兵火を受けて堂宇が全て焼失した後は約3km北西の
西ヶ谷(湘南モノレールの西鎌倉駅近く)に移転し元禄年間(1688〜1703年)に僧祐尊が現在の旧跡に再建した。
鎌倉時代末期には向いの山とは地続きであり、極楽寺古道が山門の近くを通っていた姿に思いを馳せよう。
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              右: 成就院本堂は安政三年(1856年・黒船来航の3年後)、旧地に復して約160年が過ぎた頃の建立。100mほど背後の山には血で血を洗う白兵戦
が繰り返された防衛拠点「五合枡」遺跡がある。
成就院本尊は不動明王立像、庭には 文覚上人 が自ら彫ったと伝わる荒行木像のレプリカを展示している。実物は 成就院の公式サイト にも載っているが、
ここまでデフォルメする感覚が平安時代末期にあったとは、とても信じ難い。


この頁は2022年 9月 10日に更新しました。