第50代
桓武天皇 の皇子
葛原親王 が臣籍に下って平姓を名乗り、六代
※後の章名が(推定1040年前後に)相模国に土着し、相模国郡司の丸子氏の婿となって鎌倉を領有した。
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章名の四男景成の子が、後三年戦役で有名を馳せた
権五郎景政。凱戦後は相模国中部の荒地を開拓し伊勢神宮に寄進して大庭御厨を立荘した。これが鎌倉党の始まりで、梶原郷は章名の二男景通の曾孫
景時 が継承して梶原氏を名乗った。従って景時から見ると権五郎景政は大叔父に当る(坂東 (秩父) 平氏の系図を参照)。
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頼朝 が鎌倉入りして東国の覇権を握るまでの梶原郷は
景時 の本拠だったと思うが、その後の経過が良く判らない。
相模国一ノ宮の館(別窓)に本拠を移したのが頼朝の東国支配権確立直後だったのか、建久三年(1192)に侍所別当に就任した前後だったのかは調べる必要がありそうだ。景時が一ノ宮に移った後の梶原郷も同様で、引き続いて景時が所有したのか否かも確認しなければならない。神社の由来書きには「梶原景時が1190年に創建」とあったけれど、それを鵜呑みにして良いのかどうか。
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鎌倉時代の梶原郷には、八幡宮〜窟小路〜化粧坂を越えて源氏山公園の南を抜け、相模国府のあった現在の大磯に向う鎌倉街道(後世の呼称)が通っていた。当時の主要道であり、元弘三年(1333)の鎌倉陥落の際には
新田義貞 率いる倒幕軍が金沢時盛の防衛軍と化粧坂周辺で死闘を繰り広げている。
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※六代: 一般的な梶原氏系図は 葛原親王−平高望−良文−忠光−忠通−鎌倉章名(景名)−景通−梶原景久−景清−景時 と続いているが、
平高望 を飛ばして鎌倉章名を
五代目と考える説も多い。
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良文 の長兄
国香 の子孫に
清盛 や北條氏(系図は不明確)、次兄
良兼 の子孫に越後の
城資永 一族、次々兄
良将 の子に
将門 がいる(「平氏の系図」を参照)。
章名は(1040年頃に)相模に定住し郡司の丸子氏の婿となって鎌倉を領有、梶原郷は章名の二男景通の曾孫景時が継承した。四男景成の子が
義家に従って後三年の役で活躍し、後に相模の荒地を開拓して大庭御厨(伊勢神宮領)を立荘した権五郎景政である。
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新編相模国風土記
※ には以下の記載がある。
「坂ノ下の御霊神社は鎌倉景政を祀った祠で、元々は梶原村にあった霊社をここに勧請した。祭礼には梶原村の神主が来て勤める」
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また鎌倉攬勝考
※ は次のように記載している。
「坂ノ下の御霊神社は葛原親王を主祭神とし権五郎景政を合祀した。最初は鎌倉権守忠通が葛原ヶ丘(源氏山)に先祖の葛原親王を祀り、後に梶原村に遷して御霊社と称した。景経(景政の嫡子)の代になって坂ノ下に勧請し景政を合祀した。」
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※新編相模国風土記: 江戸幕府の学問所昌平坂学問所の編纂し天保十二年(1841)に完成・提出した地誌。全126巻。
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※鎌倉攬勝考: 文政十二年(1829)に八王子千人同心の家筋に生まれた郷士・原胤縉が同心組頭植田孟縉の指示を受けて編纂した地誌。