梶原景時 の評価は総じて「讒言を繰り返した巧言令色の輩」として定着している。吾妻鏡にもそれを裏付ける記事が多いが、打算であるにせよ
頼朝 と
頼家 の二代には忠節を
尽くした武者なのは間違いない。頼朝生存中には絶対服従を貫いた多くの「忠臣ら」が頼朝死没後の僅かな期間に平然と主家を裏切って北條独裁政権の樹立に協力した。
その中で初志を貫き通した梶原景時が正治二年(1200)に、
畠山重忠 が元久二年(1205)に滅びゆく主家の源氏に殉じたのも事実である。
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梶原景時は同じ御家人仲間や
義経 などを策略と讒言で蹴り落とした、現代風に考えれば「嫌な奴」だけれど、主家に弓は引かなかった。「御恩と奉公」というギブ&テイクの
原則で約20年維持された「頼朝と御家人」の関係が 「北條氏と御家人」に移り始める中では異色の生き方だったとも言えるのだが...
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頼朝死没三ヶ月後の四月には庇護者を失った
文覚 が朝廷によって佐渡流罪となり、同12日には頼家の訴訟決裁権が剥奪され、同21日には左馬頭隆保(頼朝の代官を務めた
一條能保 の家人)失脚など、頼朝縁者の粛清が続く中で、景時包囲網も狭まっていく。なにしろ弾劾する材料には事欠かない人物だから。
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【吾妻鏡 正治元年(1200) 11月13日】.
景時は頼家から連判状を呈示されたが抗弁が出来ず、一族を率いて相模国一宮に帰った。三男の 景茂 のみ鎌倉に留められた。.
讒言→ 御家人の連判状→ 失脚→ 謀反→ 討伐 と続く景時の運命については稿を改めるが、鎌倉政権側と京都側の記録の微妙な違いを指摘しておく。
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【玉葉 正治二年(1200) 1月2日】.
宗頼(日記「玉葉」の著者で関白の 九条兼実に仕えた公卿)や範光(後鳥羽上皇 側近の公卿)が、関東の兵乱に関して次のように語った。
梶原景時 が他の御家人の糾弾※を受けた。これに対して景時は「頼家 を切り捨てて弟の千萬(実朝 の幼名)を擁立する企みあり」と、頼家に訴えた。他の武士を召し出して対決させたところ、景時が論争に敗れ讒訴が露見したため景時と息子は御所から追い払われた。 .
※御家人の糾弾: 御家人に頼まれた
中原仲業(景時を恨む京下りの文官)が10月28日に作成、
廣元 を経て11月12日に頼家に提出した御家人66人が景時を糾弾した
連判状を差す。
結城朝光 の愚痴を讒訴しようとした景時の意図を阿波局(
北條時政の娘で
阿野全成 の妻)が聞いて朝光に知らせたのが発端とされるが、
時政の意を受けた阿波局が御家人のアンチ景時の機運を煽ったと考えるべきだろう。
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12月9日に景時は鎌倉に戻って復帰を願ったが頼家は彼を庇護せず、鎌倉を追放された景時は正治二年(1200)1月に京へ向う途中の駿河で一族郎党と共に討伐された。そして建仁三年(1203)9月に頼家は失脚し
実朝が将軍になっているから、事態は景時の危惧した通り(つまり時政が狙った通り)に推移したことになる。朝廷周辺では
「景時を救えなかった(救わなかった)のは頼家最大の失敗だ」、と噂していた。