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今のトランプは腐敗と独善、親米だけの高市は日本を歪める!
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巨大な武力と財力で 思想の異なる他国 (イラン) を攻撃するトランプの暴力をなぜ許すのか?
ベネズエラを占領して大統領を拉致し自国の利益のために支配下に置く行動は正しいのか?
ノーベル平和賞を狙って独善的な行動を続ける愚かな大統領を支持するアメリカは正常か?
イラン攻撃 「不支持」 82% 首相姿勢 「評価せず」 51% 朝日新聞の世論調査を確認しよう。
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旧 統一教会に法的処分決定。それでは統一教会と協力を続けた政治家の罪は許されるのか?
旧 統一教会と親しかった政治家 安倍晋三を殺害した山上徹也の一審判決は無期懲役だった。
でも組織面で関係が深かった政治家 萩生田光一、木原誠二、井上義行は何の処分も受けない。
2022年で接点を指摘された自民党国会議員は179人、関係が深かった 121人は原状復帰か?
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攻撃される可能性のある中距離ミサイルを住宅地に配備総理の方針だから受け入れろ、か?
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 奥州藤原氏の系図  目次を含む表示は こちら で  
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藤原氏四代興亡の詳細は 奥州の悲劇① 前九年の役 から読んで頂くようお薦めします。

奥州藤原氏と中央政権の藤原氏の関係については諸説がある。平安時代の地方豪族は天皇家の子女や貴族(特に藤原氏)との交流を持つのが常態だったから、奥州藤原氏の母体となった安倍氏や清原氏も藤原氏と相当程度の婚姻関係を結んでいたのは間違いない。しかし、安倍氏と清原氏のルーツを考えるならば、彼らが中央との交流(混血)を保ちつつ東北で勢力を蓄えた俘囚の指導層だった事実を見る必要がある。
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奥州藤原氏の始祖となった清衡の父・藤原経清は下総で産まれ、在庁官人として陸奥国亘理郡(現在の宮城県南部の亘理町一帯・ 三十三間堂官衙遺跡(外部サイト)・ 地図)の官衙(郡庁)エリアを本拠にして多賀城に勤務した人物だったらしい。
尊卑分脈に拠る系図では藤原秀郷の子孫(秀郷--千晴(従六位上)--千清(従五位下)--正頼(従五位下)--頼遠(無官)--経清(従五位)と続く)とされる。

右:北側から見た亘理郡の三十三間堂官衙遺跡周辺  画像をクリック→拡大表示
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父の頼遠は長元元年(1028)に相馬郡(現在の取手市周辺)で勃発した平忠常の乱に関与した罪で陸奥国多賀郡に左遷されたと推測されている。摂関家の氏寺・南都興福寺が永承元年(1046)の全焼から再建するまでを記録した「造興福寺記」(現存する書写は保延三年(1137)前後・重要文化財)の中には五位以上の同族として経清らしい名が見える。「らしい」は気になるが、先祖の誰かが藤原氏と接点を持っていても不思議ではない。
ちなみに、経清が嫗戸柵(盛岡市)で敗死したのは康平五年(1062)9月17日、新暦の10月22日にあたる。
亘理郡官衙遺跡発掘の記録はこちら(外部サイト)で。
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頼遠と経清が藤原秀郷の子孫である可能性は高いが、肝心の秀郷が称した「藤原北家魚名流」の信憑性には諸説があり、実際には下野国史生郷(地方行政の末端組織)の土豪または下野国の掾(国司の三等官)鹿島氏の娘だった生母の家系(桓武平氏国香流)を称したとも言われる。経清の官位は従五位、中央貴族藤原氏傍流の血を継いでいる可能性に注目するのならば、むしろ経清の妻(清衡の生母)が安倍頼時の娘(貞任の姉妹)だった事実からもスタートするべきだろう、と思う。
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安倍・清原一族には俘囚蝦夷(えみし)の血が流れており、経清には藤原秀郷のDNAと蝦夷のDNAが共存していた筈だ。単純に「蝦夷=陸奥のネイティブ」と考えるのではなく、下に述べたように 「西暦700年代から約400年間も大和との混血を繰り返した陸奥ネイティブの子孫」と表現するのが妥当、か。
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ともあれ奥州藤原氏には俘囚の長だった安倍氏の棟梁・頼時の娘(貞任)つまり清衡の生母を介して蝦夷の血が流れており、その濃淡は金色堂に葬られた藤原氏四代のDNAを(いつの日か)調べれば科学的に解明される。純粋な陸奥ネイティブ(アイヌ)の可能性が高いアテルイやモレなど、大和朝廷に屈服せざるを得なかった土着民族との関連まで血脈の調査が進む、かも知れない。
藤原氏四代の遺体調査から導き出した人類学的考察はこちら(外部サイト)に一部が載っている。昔は詳細を記録したpdfファイルが公開されていたが、現在はアクセスできないようだ。金色堂の秀衡壇に納められていた泰衡の頭骨には深い斬創が何ヶ所も残り眉間から後頭部まで貫いた釘の跡があったからね。制約なしに公開するのは憚られるのだろう。明るいニュースとしては、泰衡の首桶に入っていた蓮の種が発芽し、中尊寺参道左下の池で毎年見事に開花していること。

左:三衡画像 上 清衡、右 基衡、左 秀衡  白王院(毛越寺別院・地図)蔵 江戸時代の作
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俘囚(ふしゅう)とは朝廷の支配に屈した出羽・陸奥地方の蝦夷で、西暦700年代から中央政府の進出に伴って支配下に置かれた広義の土着民を意味する。つまり、アイヌ民族・中央政府からの離脱者・抵抗して捕虜になった者など、中央政権から見たアウトサイダーを含むと考えられる。
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強大な軍事力に屈して陸奥・出羽から西国へ強制移住させられて支配下に溶け込む筈だった蝦夷は西暦800年代の居留地で再三の騒乱を起こし、それに手を焼いた朝廷は寛平九年(897)に全国の 俘囚を再び東北地方に送還して隔離統治する政策を執った。
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蝦夷の懐柔策として税の免除・食料の支給・一定の自治権などを付与した結果、俘囚の中で実力を蓄えた者が台頭してくる。陸奥国(福島~宮城~岩手~青森に至る太平洋側)の俘囚長を称した安倍氏と、出羽国(日本海側の秋田~山形)俘囚主を称した清原氏が経済力と軍事力によって蝦夷を支配する側となり、実権を握る過程で朝廷貴族層と交流し混血してその権威を高めた。
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一方で藤原秀郷(俵藤太)から六代後の末裔を称する(尊卑分脈に依拠)亘理権大夫経清が五位の官位を受け、南東北の狭いエリアに権益を確立し在庁官人に任じて多賀城に入った。ただし彼の出自と経歴については諸説があり、そもそも祖先とされる藤原秀郷と藤原氏の関係さえ曖昧だから、あえて「中央の藤原氏に多少の血縁関係を持つ亘理経清」と記載しておく。
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奥州藤原氏が覇権に向う発端となった前九年の役については、平安時代末期に成立した「陸奥話記」をベースにしてこちらに地図と概略を記載した。
個人的にはいつの日か、アテルイ(阿弖流為・サイト内リンク)が武力で朝廷に抵抗した700年代後半から、前九年戦役で安倍一族と藤原経清が滅亡した1062年と後三年戦役で清原一族が滅亡した1087年を経て頼朝の奥州征討で藤原氏四代泰衡が滅亡した1189年まで、500年間近くの事件が刻まれた東北の史跡を、最初の一歩から訪ね歩いてみたい、と思っている。私にとっては見果てぬ夢のライフワークだ。
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さて...この稿のテーマからは外れるが、有史以来の東北が中央政権の収奪対象であり、それが現代も続いている事実は再確認しておきたい。
日本の軍事的な安定は偏に、在日米軍の基地が存在し続ける沖縄県民の過大な負担に支えられてきた。そして、首都圏が繁栄するための電力は主として東北が、中でも特に福島県が「放射能の危険」を関東圏の住民に代わって負担し続けてきた。
それらの地域格差は 「平安時代の朝廷による植民地化とは違う」 と、誰が言えるのだろうか。
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また、原発の無防備な新増設を推進した世襲政治家とエリート官僚、まともな危機管理もできなかった電力会社、無責任な安全神話に便乗し続けた評論家、歴史に学ぶ事もできなかった(或いは、認識しながら目を反らした)御用学者など 「原発に寄生して甘い汁を吸い続けた連中」 に問うてみたい。
あなたがたは、飢饉や戦乱の被害に対応する努力もせず能力もないままに、民の生み出した利益を食い荒らした平安時代の貴族と何が違うのか、と。



安倍忠頼─┬─忠良──頼時(頼良)─┬─良宗(良安?吾妻鏡が書いている「盲目の井殿」(井殿冠者)、早世か?伝承は多いが詳細資料なし。)
     │           │
     └─忠世──富忠※A  ├─貞任(厨川二郎、二男で嫡男、母は清原氏との説あり。康平五年(1062)10月、前九年の役に敗れて斬首。首は丸太に打ち付けられて都へ送られた。男子は13歳で戦死した千世童子)
                 │                        
                 ├─宗任(鳥海三郎、前九年の役に敗れ降伏し伊予配流を経て筑前に流され77歳で死没。子孫は九州に土着し栄えた。仮病で敵前逃亡した元総理(現総理ね)安倍晋三は宗任の子孫を称しているが信憑性は乏しい。常習的な嘘つきだから)
                 │
                 ├─真任(鶴脛四郎か?上山市鶴脛町に数ヶ所の鶴脛柵否定地あり、未確定)
                 │
                 ├─正任(黒沢尻五郎、戦役終結後に投降。黒沢尻柵(JR北上駅近く)は正任の居館とも伝わるが詳細は不明)
                 │
                 ├─重任(北浦六郎。遠野物語に拠れば、河童淵のある常堅寺周辺が重任の館だった、と。安部与市爺さん(外部リンク)は重任の28代目を名乗っていた(真偽は不明)。
                 │
                 ├─家任(鳥海弥三郎。前九年の役に敗れ降伏、伊予に流された後に兄宗任と共に筑前大宰府に流された。)
                 │
                 ├─則任(沙弥良増。厨川柵で捕虜となり、妻はその前に自殺。白鳥八郎と考える説あり)
                 │
                 ├─行任(白鳥八郎か、あるいは二戸九郎か。前九年の役では白鳥柵を守った、とも。)
                 │
                 ├─女性(平永衡室の中加一乃末陪。表示の都合で上に載せたが、実際は経清室(有加一乃末陪)の妹。)
                 │
                 │ 藤原経清※B(康平五年(1062)9月、前九年の役に敗れて捕われ、頼義の憎しみを受け錆刀により斬首。首は丸太に打ち付けられて都へ送られた。) 
                 │  │
                 │  ├──清衡(陸奥押領使・正六位上)
                 │  │   │
                 │  婚姻  ├─────┬─惟常※C
                 │  │   │     │
                 │  │  北方平氏※H │
                 │  │         │
                 └─有加一乃末陪※D    ├─基衡(妻は宗任の娘)─┬─秀衡────┬─国衡(西木戸太郎。母は蝦夷の系統か? 義経保護を主張し、文治五年(1189)8月、阿津賀志山合戦後に討死)
                    │         │           │       │     
                    │         │           └─津軽秀栄※E├─泰衡(四代目嫡男、母は藤原基成※Fの娘。奥州合戦に敗れて北へ逃げ文治五年(1189)9月家臣に殺された。)
                    │         │                   │
                    │         ├─正衡───             ├─忠衡(泉三郎。母は藤原基成の娘。義経保護を主張し文治五年(1189)6月、義経と共に泰衡に討たれる。)
                    │         │                   │
                    │         ├─家清───             ├─高衡(本吉冠者。奥州合戦で降伏し捕虜となったが後に赦免。正治三年(1201)の城長茂の乱に加わり戦死。)
                    │         │                   │
                    再嫁        │                   ├─通衡(詳細は不明、尊卑分脈は忠衡の同母弟で共に泰衡に討たれた、としている。)
                    │         │                   │
                    │         │                   └─頼衡(母は藤原基成の娘? 義経保護を主張し文治五年(1189)6月、泰衡に討たれる。)
                    │         │
                    │         └─清綱(和泉十郎)───┬─俊衡(樋爪太郎)─大田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡
                    │                     │
                    │                     ├─季衡(五郎)───新田冠者経衡
                    │                     │
                    │                     └─乙和子姫(基治の後妻)
                    │                        │
                    │                        ├────┬─継信
                    │                        │    │
                    │                       佐藤基治  ├─忠信
                    │                        │    │
                    │                        │    └─藤江・浪江・浪戸(源義経室)
    清原光方───┬─光頼──頼遠 ├──家衡(後三年の役で敗死)           │
     (又は武頼) │        │                        ├────┬─前信
           └─武則──┬─武貞──真衡───────成衡※G         │    │
                 │                           │    └─治清
                 ├─武衡(後三年の役で敗死)──女(城資国室、資永の母)  │
                 │                          基治の先妻(大窪太郎の娘。常陸平氏大窪(大掾)宗幹か?)
                 └─女性
                    │                                             
            吉美侯武宗   │
              │     │
              ├────吉彦(きみこ)秀武(出羽清原一族の長老。成衡の婚儀の際に真衡と争い、源義家がこれに介入して後三年の役が起きた。)
              │
            清原武頼娘(詳細は不明。武衡と同じく父は光方とする説もある)

※A 安倍富忠
頼時の従兄弟(推定)で陸奥国北部(現在の青森県一帯)を領有した。前九年の役当初は頼時と共に頼義率いる朝廷軍と戦ったが戦乱中盤の天喜五年(1057)に 甘説(褒賞または安倍氏の棟梁継承を保証した意味か)に応じて為義側に寝返った。同年7月には説得に向った頼時を仁土呂志辺(青森県東部)で襲撃、頼時はこの時に受けた矢傷が元で衣河館に戻る 途中の鳥海柵で没した。その後の富忠の消息は不明。
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※B 藤原経清
亘理郡(宮城県南部)に土着していた豪族で奥州藤原氏系図の始祖。尊卑分脈に拠れば藤原秀郷(俵藤太)から六代後の子孫で、本領は亘理郡(現在の宮城県亘理郡亘理町一帯)。父は下総の住人藤原頼遠、母は平国妙(出羽国の武将)の姉妹としている。確実に信頼できる系図は存在しないが、藤原氏の縁に繋がる従五位の在庁官人であり、陸奥権守として多賀城に勤務していたらしい。
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  ※尊卑分脈では:藤原秀郷─千晴(三男)─千清─正頼─頼遠─経清 と続いている。ただし千晴と頼遠を結ぶ系譜も数種類あり、更に秀郷と
藤原北家を結ぶ系譜にも曖昧な部分が多いため信頼性に欠ける、と思う。念のため下に藤原北家魚名流の系図を追記する。
藤原鎌足─不比等(二男)─房前(二男)─魚名(五男)─藤成(五男)─豊沢(長男)─村雄─秀郷
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  ※亘理郡:郡衙を中心とする
三十三間堂官衙遺跡(発掘資料)はJR常磐線逢隈駅西側( 地図)にあり国の史跡に指定されている。
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永承六年(1051)に安倍一族が納税を拒んで前九年の役が勃発、経清は義父の安倍頼時に従って官軍と戦ったが停戦後に大赦を受け、頼時と共に許されて頼義に従った。天喜四年(1056)に再び 安倍一族が蜂起して合戦となり、経清同様に頼時の娘を妻にして頼義に従っていた在庁官人の平永衡が内通の疑いで殺された。この事件で粛清の危険を感じた経清は兵を率いて頼義傘下から離脱し 安倍氏側に走った。
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その後の戦況は安倍氏側が有利のまま膠着、康平五年(1062)に頼義は出羽の豪族で俘囚の長・清原光頼に臣下の礼を尽くし応援を懇請した。光頼の弟武則は大軍を率いて参戦、安倍氏を滅ぼして 従五位下鎮守府将軍となり、安倍氏の旧領奥六郡を併合した。捕虜となった経清は頼義の憎しみを受け、苦痛を長引かせるため錆びた刀による鋸挽きで斬首された。
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※C 藤原(小館)惟常
長秋記(皇后宮権大夫・源師時の日記)の大治五年(1130)が、清衡死没後の後継を巡る長男・小館惟常と弟・基衡の争いを記録している。
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基衡は兵を派遣して惟常の舘を包囲した。(軟禁状態の)惟常は女子供20余人と共に小舟で脱出し越後に逃げて他の兄弟と共に対抗しようとした。基衡は兵に命じて陸路を追わせ、小舟が逆風で岸に押し戻されたのを捕らえて全員の首を斬った。清衡の妻は上洛して検非違使の源義成に再嫁し、各所に貢物を贈ると共に基衡の無法を訴えて都人の不興を買った。
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清衡が「中尊寺供養願文」(
中尊寺の項を参照)に記した平和な世界への祈りは嫡子基衡による兄一族殺戮で夢と消え、歴史は60年後の奥州藤原氏滅亡へと続いていく。清衡の息子は惟常・基衡・正衡・家清の四人が記録されているが正衡と家清に関する史料は見当たらず、清衡が発願した中尊寺経(紺紙金銀字交書一切経)には「六男三女」と書いてあるのみで詳しい係累は判らない。
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惟常の生母の素性は確定していないが、上洛して源義成と再婚したのは清衡正室の北方平氏(出自は諸説あり)の可能性が高い。彼女は基衡の生母だったから殺されなかった、そして惟常の生母だったから彼の擁立を望んだ...その二点を組み合せて考えると、惟常と基衡が同母の兄弟だった可能性が見えてくる。北方平氏は惟常擁立を試みて失脚し、陸奥国から追われたのではないか。小館惟常が軟禁された「国の館」(江刺の豊田館か)も逃亡したルートも目的地も諸説があって想像の域を出ない。当時の奥州藤原氏と津軽・出羽・越後との接点については更に研究する余地がありそうだ。
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※D 頼時の娘
三人姉妹の長女で名は有加一乃末陪。藤原経清に嫁して清衡を産んだが前九年の役終結と共に経清が敗死したため、幼い清衡を連れて戦勝者・清原武則の嫡男武貞に 再嫁して家衡を生み、清衡は武貞の養子として育てられた。武貞の死後の清原一族は後継を巡って内紛を繰り返し、最終的には源義家の支援を受けて勝ち残った清衡が奥六郡(現在の岩手県一帯で、 胆沢郡・江刺郡・和賀郡・紫波郡・稗貫郡・岩手郡を差す)と出羽国の支配者となった。清衡は後に父経清の姓に戻し、奥州藤原氏の初代となっている。
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※E 津軽秀栄
十三湊(とさみなと)を支配し五所川原の福島城で繁栄したが、鎌倉中期以後に支配権は安東氏(安倍貞任の子孫を称す)に移った。頼朝軍に追われて平泉を捨てた泰衡は秀栄の庇護に頼るため十三湊を目指したのかも知れない。十三湊は今でも狂信的な信奉者が残っている偽書「東日流外三郡誌」が東北に栄えた古代文明の首都だったと主張している事でも知られる。一民間人が次々と古文書や遺物を発見する異様さを疑わないのかねぇ...。
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※F 藤原基成
父・忠隆も基成の兄弟も白河天皇の近臣であり、妹は関白である藤原基実の妻。朝廷との太いパイプを持っていた人物。康治二年(1143)に陸奥守として平泉へ着任し、 奥州藤原氏の棟梁・基衡と親しく交わって娘を基衡の嫡男秀衡と結婚させた。10年後の任期終了後も平泉に留まって藤原氏への影響力を保ち、近親者を陸奥守として歴任させている。
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義経との接点について...源義朝の愛妾常盤御前は義朝の死後に清盛の妾となり更に基成の父忠隆の従兄弟である一条卿長成に嫁いでいる。常盤の子・義経が奥州へ逃げて秀衡の庇護を受けたのは常盤から夫の長成を経由して基成への働きかけがあった、と推測される。奥州滅亡の際には鎌倉方の千葉胤頼(千葉常胤の六男)により捕縛、後に息子三人と共に釈放され京都に戻った以後の消息は不明。系累の多かった人物だから誰かの庇護を受けて余生(当時70歳)を過ごしたのかも。
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※G 清原成衡
常陸岩城氏(常陸平氏(海道平氏・岩城氏系図では常陸大掾平国香の子孫)の傍流)からの養子。養父の清原真衡は源頼義の娘(つまり義家の妹)と娶わせて夫婦養子 に迎え、源平両家の血筋によって家格を挙げようと考えたらしい。これは同時に清原氏の血筋が嫡流から外れることを意味するため、同族の吉彦秀武らが抱いた潜在的な不満が内紛となり、後三年の役勃発の 一因となった。清衡氏の血筋が滅びた後の成衡の消息は不明。後三年の役で戦死した、あるいは義家の庇護を受けて下野国に土着したとも伝わっている。
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※H 清衡の妻
出自は北方平氏と伝わっているが、経清の母方・平国妙系、越後城氏、岩城氏(海道平氏)、常陸大掾氏など諸説あり確定に至っていない。
※Cの小館惟常の項に息子二人が清衡の相続について争った経緯を載せてある。