※A 安倍富忠
頼時の従兄弟(推定)で陸奥国北部(現在の青森県一帯)を領有した。前九年の役当初は頼時と共に頼義率いる朝廷軍と戦ったが戦乱中盤の天喜五年(1057)に
甘説(褒賞または安倍氏の棟梁継承を保証した意味か)に応じて為義側に寝返った。同年7月には説得に向った頼時を仁土呂志辺(青森県東部)で襲撃、頼時はこの時に受けた矢傷が元で衣河館に戻る
途中の鳥海柵で没した。その後の富忠の消息は不明。
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※B 藤原経清
亘理郡(宮城県南部)に土着していた豪族で奥州藤原氏系図の始祖。尊卑分脈に拠れば藤原秀郷(俵藤太)から六代後の子孫
※で、本領は亘理郡(現在の宮城県亘理郡亘理町一帯)
※。父は下総の住人藤原頼遠、母は平国妙(出羽国の武将)の姉妹としている。確実に信頼できる系図は存在しないが、藤原氏の縁に繋がる従五位の在庁官人であり、陸奥権守として多賀城に勤務していたらしい。
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※尊卑分脈では:藤原秀郷─千晴(三男)─千清─正頼─頼遠─経清 と続いている。ただし千晴と頼遠を結ぶ系譜も数種類あり、更に秀郷と
藤原北家を結ぶ系譜にも曖昧な部分が多いため信頼性に欠ける、と思う。念のため下に藤原北家魚名流の系図を追記する。
藤原鎌足─不比等(二男)─房前(二男)─魚名(五男)─藤成(五男)─豊沢(長男)─村雄─秀郷
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※亘理郡:郡衙を中心とする
三十三間堂官衙遺跡(発掘資料)はJR常磐線逢隈駅西側(
地図)にあり国の史跡に指定されている。
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永承六年(1051)に安倍一族が納税を拒んで前九年の役が勃発、経清は義父の安倍頼時に従って官軍と戦ったが停戦後に大赦を受け、頼時と共に許されて頼義に従った。天喜四年(1056)に再び
安倍一族が蜂起して合戦となり、経清同様に頼時の娘を妻にして頼義に従っていた在庁官人の平永衡が内通の疑いで殺された。この事件で粛清の危険を感じた経清は兵を率いて頼義傘下から離脱し
安倍氏側に走った。
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その後の戦況は安倍氏側が有利のまま膠着、康平五年(1062)に頼義は出羽の豪族で俘囚の長・清原光頼に臣下の礼を尽くし応援を懇請した。光頼の弟武則は大軍を率いて参戦、安倍氏を滅ぼして
従五位下鎮守府将軍となり、安倍氏の旧領奥六郡を併合した。捕虜となった経清は頼義の憎しみを受け、苦痛を長引かせるため錆びた刀による鋸挽きで斬首された。
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※C 藤原(小館)惟常
長秋記(皇后宮権大夫・源師時の日記)の大治五年(1130)が、清衡死没後の後継を巡る長男・小館惟常と弟・基衡の争いを記録している。
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基衡は兵を派遣して惟常の舘を包囲した。(軟禁状態の)惟常は女子供20余人と共に小舟で脱出し越後に逃げて他の兄弟と共に対抗しようとした。基衡は兵に命じて陸路を追わせ、小舟が逆風で岸に押し戻されたのを捕らえて全員の首を斬った。清衡の妻は上洛して検非違使の源義成に再嫁し、各所に貢物を贈ると共に基衡の無法を訴えて都人の不興を買った。
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清衡が「中尊寺供養願文」(
中尊寺の項を参照)に記した平和な世界への祈りは嫡子基衡による兄一族殺戮で夢と消え、歴史は60年後の奥州藤原氏滅亡へと続いていく。清衡の息子は惟常・基衡・正衡・家清の四人が記録されているが正衡と家清に関する史料は見当たらず、清衡が発願した中尊寺経(紺紙金銀字交書一切経)には「六男三女」と書いてあるのみで詳しい係累は判らない。
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惟常の生母の素性は確定していないが、上洛して源義成と再婚したのは清衡正室の北方平氏(出自は諸説あり)の可能性が高い。彼女は基衡の生母だったから殺されなかった、そして惟常の生母だったから彼の擁立を望んだ...その二点を組み合せて考えると、惟常と基衡が同母の兄弟だった可能性が見えてくる。北方平氏は惟常擁立を試みて失脚し、陸奥国から追われたのではないか。小館惟常が軟禁された「国の館」(江刺の豊田館か)も逃亡したルートも目的地も諸説があって想像の域を出ない。当時の奥州藤原氏と津軽・出羽・越後との接点については更に研究する余地がありそうだ。
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※D 頼時の娘
三人姉妹の長女で名は有加一乃末陪。藤原経清に嫁して清衡を産んだが前九年の役終結と共に経清が敗死したため、幼い清衡を連れて戦勝者・清原武則の嫡男武貞に
再嫁して家衡を生み、清衡は武貞の養子として育てられた。武貞の死後の清原一族は後継を巡って内紛を繰り返し、最終的には源義家の支援を受けて勝ち残った清衡が奥六郡(現在の岩手県一帯で、
胆沢郡・江刺郡・和賀郡・紫波郡・稗貫郡・岩手郡を差す)と出羽国の支配者となった。清衡は後に父経清の姓に戻し、奥州藤原氏の初代となっている。
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※E 津軽秀栄
十三湊(とさみなと)を支配し五所川原の福島城で繁栄したが、鎌倉中期以後に支配権は安東氏(安倍貞任の子孫を称す)に移った。頼朝軍に追われて平泉を捨てた泰衡は秀栄の庇護に頼るため十三湊を目指したのかも知れない。十三湊は今でも狂信的な信奉者が残っている偽書「東日流外三郡誌」が東北に栄えた古代文明の首都だったと主張している事でも知られる。一民間人が次々と古文書や遺物を発見する異様さを疑わないのかねぇ...。
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※F 藤原基成
父・忠隆も基成の兄弟も白河天皇の近臣であり、妹は関白である藤原基実の妻。朝廷との太いパイプを持っていた人物。康治二年(1143)に陸奥守として平泉へ着任し、
奥州藤原氏の棟梁・基衡と親しく交わって娘を基衡の嫡男秀衡と結婚させた。10年後の任期終了後も平泉に留まって藤原氏への影響力を保ち、近親者を陸奥守として歴任させている。
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義経との接点について...源義朝の愛妾常盤御前は義朝の死後に清盛の妾となり更に基成の父忠隆の従兄弟である一条卿長成に嫁いでいる。常盤の子・義経が奥州へ逃げて秀衡の庇護を受けたのは常盤から夫の長成を経由して基成への働きかけがあった、と推測される。奥州滅亡の際には鎌倉方の千葉胤頼(千葉常胤の六男)により捕縛、後に息子三人と共に釈放され京都に戻った以後の消息は不明。系累の多かった人物だから誰かの庇護を受けて余生(当時70歳)を過ごしたのかも。
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※G 清原成衡
常陸岩城氏(常陸平氏(海道平氏・岩城氏系図では常陸大掾平国香の子孫)の傍流)からの養子。養父の清原真衡は源頼義の娘(つまり義家の妹)と娶わせて夫婦養子
に迎え、源平両家の血筋によって家格を挙げようと考えたらしい。これは同時に清原氏の血筋が嫡流から外れることを意味するため、同族の吉彦秀武らが抱いた潜在的な不満が内紛となり、後三年の役勃発の
一因となった。清衡氏の血筋が滅びた後の成衡の消息は不明。後三年の役で戦死した、あるいは義家の庇護を受けて下野国に土着したとも伝わっている。
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※H 清衡の妻
出自は北方平氏と伝わっているが、経清の母方・平国妙系、越後城氏、岩城氏(海道平氏)、常陸大掾氏など諸説あり確定に至っていない。
※Cの小館惟常の項に息子二人が清衡の相続について争った経緯を載せてある。