栃木県宇都宮市から10kmほど南、「おもちゃの町」として知られた壬生町に「金売吉次の墓」と伝わる石塔がある。教育委員会に拠れば、吉次は
義経 と共に平泉に逃れる
途中で病に倒れ、この地
(地図)で生涯を終えた、と。村人は吉次を埋葬し、新たに堂(現存)を建てて吉次の守護仏・観音像を祀った。
また同じく栃木県の東武線樅山駅近く
(地図)にある2mほどの
石塔(外部サイト)も吉次の墓と伝わり、こちらは明治初期に廃寺となった浄慶院の遺物と推定されている。
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金売り吉次の墓として広く知られているのは、白河市のJR白坂駅近くの旧奥羽街道(国道294号)沿いの墓地。
伝承に拠れば、治承年間(1177〜1180)に吉次・吉内・吉六の金売り三兄弟が強盗の藤沢太郎に殺害された、彼らが金品を入れていた皮籠をここに捨てたため土地の名が
皮籠村になったと伝わる。とりあえずは白河市観光協会の
現地紹介サイト で。白河の関近くは何度も通ったのにここは見逃していた、残念!
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源平盛衰記や義経記は
「奥州藤原氏の三代当主 秀衡 の意を受けた金売りの吉次が牛若丸を平泉へ導いた」と描いているが、この人物に関する史料は皆無である。
当時の奥州は金の産出地であり、その金を都に運んで売買する商人の一人あるいはグループが「吉次」という具体像として描かれた、と考えられる。
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陸奥国が初めて金を産出し宮廷に献上されたのは第45代聖武天皇の天平二十一年(749)。東大寺大仏の表面を鍍金(メッキ)するために必要な金が不足していたため天皇は
大いに喜び、年号を天平感宝
※に改めたと伝わる。大仏の鍍金に使った金は150kg弱、陸奥国から献上された13kg以外は全て大陸から輸入された。
陸奥国での産出地は石巻市と大崎市の中間に位置する当時の小田郡(現在の宮城県遠田郡湧谷町)で、ここには
黄金山神社(公式サイト)も現存している。
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※天平感宝: 天平二十一年(太陽暦の749年)5月から同年の8月(天平勝宝に改元)まで、天皇が金を得て喜んだ三ヶ月のみ使われた年号らしい。
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平泉郊外の「吉次屋敷」と呼ばれる場所が彼の屋敷跡と長く信じられていたが、近年の発掘調査により
長者ヶ原廃寺の跡 (発掘レポート)と判明。中尊寺から約1km北で衣川が
大きく蛇行し「渡船場」の地名が残っているため、ここが衣川の船運を利用した東国との物流拠点だったと推定されている。
衣川地区訪問記 も参照されたし。