源平盛衰記&新編相模風土記に拠れば...たぶん源平盛衰記)が種本にして編纂したのだろうけれど、
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緒戦の
石橋山合戦(別窓)と
堀口合戦(別窓)で敗れた
頼朝 主従は
大庭景親 率いる平家軍と
伊東入道祐親 の追撃を逃れて土肥の椙山へと入った。そして新崎川源流付近で
延命地蔵菩薩(wiki)を祀る小道地蔵堂の床下に匿われ、堂僧の純海が命懸けで匿い平家軍兵の捜索を逃れた。
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後に鎌倉に入った頼朝は一宇を建立し、寺領として広い田畑を併せ純海に与えて恩に報いた。その寺は小道山(しょうどうさん)来潮寺(或いは頼朝寺、らいちょうじ)と称し、吉浜の塩田も寺領に加えたとも伝わるが、場所は定かでない。千歳川を越えた熱海側・ビーチラインの入口近くにある「潮音寺」は無関係だと思うが、確認する必要はある。
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いずれにしてもその寺は鎌倉時代中期の文永二年(1265)に焼失し、更には寺領の塩田も津波に呑まれてしまった。吉浜海岸に沿って走る国道135号沿いに残る現在の小道地蔵堂は400年後の貞享ニ年(1685)に地元の人・岩本勘兵衛が焼け残った本尊の地蔵石像を掘り起こしてここに祀ったもの。更にその30年後の正徳五年(1715)に僧・禅廊が浄財を集めて堂を再建、現在では300mほど西の曹洞宗英潮院が管理して伝承を留めている。元々の小道地蔵堂があった椙山山中の「寺屋敷」は小さな緑地が整備され、石碑・地蔵像・純海の像が建っている。
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本尊の地蔵石像は四面を持つ石柱の正面に彫られているもので延暦二十三年(804)の銘があり、大同四年(810)に漁師が網で海中から引き上げ椙山に祀った像であると伝わっているが非公開、また
十王像(wiki)を収蔵している。今でも地元の信仰の対象になっているらしいが、駅からの便が悪い上に国道135号に面して車の往来も激しく、駐車できるスペースもないため立ち寄りにくい