鎌倉幕府が滅亡する前年の元弘二年(1332)3月、児島高徳は隠岐へ流される途中の
後醍醐天皇 を奪い返そうとして護送する武士団を追尾したが機会がなく、
皇室崇敬の志だけは伝えたいと考えた高徳は宿舎の庭に忍び込み、桜の樹皮を削って忠義を尽くす漢詩を書いた。
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高徳は備前国児島郡の出身で、鎌倉幕府滅亡後に新政権が分裂した南北朝時代には南朝の武将として活躍した、とされている。ただし高徳の存在を記録した文献は
軍記物語の「太平記」だけなので、太平記を編纂した小島法師(彼も実像は不明)と同一人物か、モデルは山岳宗教の修験者かなど疑問を呈する説も多い。
太平記が広く読まれた江戸時代以後は南朝に殉じた忠臣として崇敬を集め、特に皇国史観に基づく戦前教育では絶好の教材として英雄扱いを受けた。日本は歴史の
捏造が平然と横行しているからね。
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承久三年(1221)7月、承久の乱後の朝廷への懲罰として
後鳥羽上皇 の皇子 頼仁親王が備前国豊岡庄児嶋に流された(倉敷市木見に
陵墓 (wiki 画像、
地図)。
その子孫が児島高徳だとする説もあるが、なんとなくヨタ話っぽい。
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新田荘の正法寺に
新田義貞 の弟 脇屋義助の遺髪が葬られたのは事実だが、それを西国から運んだのが児島高徳だった記録はないし、前述の通り高徳実在の確証も
ないのだが、正法寺から古海郷の高徳寺までは10kmほどで、地理の違和感はない。
また児島高徳が頼ったと伝わる古海広房は佐貫荘西部の古海郷を領有した実在の人物で、古海郷は鎌倉時代初期に藤姓足利氏(
藤原秀郷 の系)の佐貫広光が差配した
佐貫荘(現在の館林一帯)に含まれる。
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佐貫一族は鎌倉御家人として館林から太田市の東部(大蔵保)に勢力を広げて地頭にも任じており、高徳が頼った古海広房は佐貫氏庶流の可能性が高いので
新田氏と多少の関係はあっただろう。古海氏を含む佐貫一族が南北朝のどちらに与したのか不明だが、渡良瀬川を隔てた北側を領有した(北朝側の)源姓足利氏と
対峙していたとすれば、彼らが「敵の敵は味方」の論理で児島高徳を庇護したと推測すれば、話の辻褄は合う。
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こう考えれば、児島高徳が実際に義助の遺髪を新田に運んだ後に古海で生涯を終えた「可能性」は見える様な気はする。もちろん様々な経緯を承知していた人物が
幾つかの史実を組み合わせて壮大なフィクションを創り出し高徳寺と高徳の墓所を建てた、その可能性もかなり高い。