江ノ島電鉄を利用する場合は江ノ島の次が腰越駅。改札を出て左に200mほど歩くと
龍護山満福寺(公式サイト)の参道入口に至る。真言宗大覚寺派の古刹である。
路地を左に登ると家並みスレスレを走る線路の先が境内で、車の場合はそのまま坂を登れば余裕のある駐車場が設けられている。
満福寺北側の高台には本龍寺・東漸寺・本成寺・妙典寺・勧行寺・常立寺など「龍口寺輪番八ヶ寺」
※が隣接しているから、時間があればのんびりと巡廻して見るのも面白い。
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※輪番八ヶ寺: 日蓮 法難の
龍口寺(公式サイト・龍ノ口刑場跡)は明治十九年まで住職不在で近在の八ヶ寺が輪番で霊場を守った。
その経緯から全ての寺が龍護山を名乗っている。
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※龍ノ口刑場: 龍口寺境内に刑場跡の石碑が建っているが、正確な場所は確定していない。
頼朝が鎌倉入りした頃から刑場が置かれていた。
平家の将
大庭景親 が治承四年10月に斬首された固瀬川もこの刑場だったらしい。文永の役の翌・建治元年(1275)9月にはクビライが派遣した元の使者・杜世忠ら5人もここで斬首された。輪番八ヶ寺の一つ常立寺には彼らを弔う元使塚が建っている。
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【吾妻鏡 元暦元年(1185) 5月15日】.
義経 の使者 堀景光 が鎌倉に着いた。義経は前の内府親子(平宗盛 と嫡子清宗)を伴って去る7日に京を発ち今夜酒匂の駅(小田原)に着く予定で、明日鎌倉に入る旨を報告した。頼朝は宗盛親子を受け取るため 北條時政 に牧宗親と 工藤行光 を副えて酒匂宿に派遣した。義経はすぐに鎌倉に入ってはならぬ、暫くその辺に逗留し呼ばれてから来るように、と小山朝光(後の 結城朝光)に伝えさせた。 .
【吾妻鏡 元暦元年(1185) 5月24日】.
義経は思い通りに朝敵の平家を討ち滅ぼして宗盛を連行した。功績は確かだが日頃の不遜な態度が頼朝の怒りを受けて鎌倉に入れず腰越の驛で無為に日を過ごしている。
鬱々の思いを綴った嘆願書を政所別当の 大江廣元 を介して 頼朝に提出した。特に言葉はなく追って沙汰する、と。
吾妻鏡に載っている腰越状の内容を要約すると...
平家を滅ぼした功績を訴え、讒言した者の言葉だけを聞き面談さえ出来ない立場を嘆き、赤子の時から辛酸を味わった肉親の情を語り、五位の尉に任じた源氏の栄誉を述べた上で一切の野心を持たず頼朝の子々孫々まで護る事を誓っている。.
更に詳細の内容が知りたければ、「腰越状」で検索すればウンザリするほどの情報が得られる。ドラえもんの「オモイコミン」を服用した(笑)みたいなのもあるから要注意。頼朝に無視されようが冷遇されようが我慢して京に帰れば良かったのに、義経は愚かにも捨て台詞を残して出発。これで関係修復は無理になった。
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【吾妻鏡 元暦元年(1185) 6月9日】.
酒匂に逗留していた義経が宗盛と共に京に向って発った。橘公長 ・浅羽宗信 ・宇佐美平次祐茂 らが囚人の護送を担当した。義経は「鎌倉に行けば平家追討の功績を賞せられると考えたのに頼朝にも会えず空しく京へ帰る、この恨みは昔の(平家への)恨みより深い」と語った。 .
【吾妻鏡 元暦元年(1185) 月13日】.
廣元と 筑後俊兼 が義経に与えた平家の所領24ヶ所没収の措置をとった。功績は頼朝の代官としてであり、御家人の協力がなければ(神仏じゃあるまいし)平家を滅ぼせなかった。それなのに自分の功績ばかり主張して「鎌倉に怨みがある者は義経に従え」と暴言を吐いた。頼朝の怒りに伴う措置である。 .
満福寺に収蔵されているのは文政三年(1820)に彫られた版木による刷り物で、義経から大江廣元を経て頼朝に届いた書状はもちろん残っていない。この手紙を書いたのは義経祐筆の中原信康だとか、原案は
弁慶だとか、平家物語と吾妻鏡に書いてある内容が異なるとか、義経が任官した五位尉は誇るほどの地位じゃないとか、武者たる者がこんな美辞麗句の長文は書かないとか、...諸説が徹底的に入り乱れている。近年では吾妻鏡の研究に伴って「吾妻鏡編纂者の捏造」あるいは「そもそも義経は腰越に滞在しなかった」など、信頼性には多くの疑問が呈されている。個人的には、細かい内容よりも時代の推移のみを重視すれば良いじゃないの、と思うが。
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版木の他に、満福寺では弁慶の手玉石・腰掛け石・食器、後世の襖絵などが拝観できる。いずれも、わざわざ見る程の品ではない。