徴税の任を受けた両名は多数の部下を従えて荘家(荘園事務を司る者の家)に押し入り強引な取立てを行った。義貞は「法を超えた仕打ちだ、我が館の辺を雑人の馬蹄に懸けさせるのは無念」と怒り、弟の脇屋義助に命じて二人を捕縛。その日の夕刻には黒沼彦四郎を斬り首を世良田郊外に晒した。
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一面に畑が広がる世良田の公園近くに小高い丘があり、二体の地蔵が殺された両名を弔ったものとされるが、実際には複雑な事情があった。
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義貞が相続した新田宗家は既に没落し、所領を切り売りする窮状にあった。その大部分を買い取ったのが北條得宗家で、徴税使の一人出雲介親連は他家から強奪するためではなく、主人の所領から徴税するために派遣されていた。まぁ徴税が過酷だったのは事実だが既に義貞が口を挿む範囲を離れており、衝突の原因は黒沼彦四郎の存在にあった。
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彦四郎入道は足利氏の家臣で、新田荘のすぐ西に隣接する淵名荘(現在の伊勢崎市。朝廷とと仁和寺と醍醐寺が共同所有する荘園で管理は足利氏)の荘官だった。代々北條氏に冷遇された新田氏と違って足利一族は幕臣の筆頭であり、源氏嫡流として応分の待遇を受けている。義貞との関係が険悪な黒沼彦四郎が幕府の徴税吏を案内して無法を働いたため、只でさえ僻み半分で足利憎しの意識があった義貞の堪忍袋の緒が切れた、らしい。
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この地域には明治の頃まで数基の前方後円墳と多数の円墳が残されていたが現在は三基が見られるのみ。二体地蔵塚はその中の一つ、古墳時代の円墳と考えられている。伝承では、この塚の近くで人の争う異様な声が毎晩聞こえるため、村人が石地蔵を建てて供養したところ声は聞こえなくなった。後に近くの普門寺にあった石地蔵一体を移したため二体地蔵と呼ばれるようになった、と伝わる。従って黒沼彦四郎らを弔った墓標とする根拠は乏しい。
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太田市世良田町1286(
地図)、見学は無料。駐車場はないが200m西の
世良田公園(群馬ナビのサイト)に広い無料駐車場がある。周辺も併せての探訪なら新田荘歴史資料館の無料Pに車を停め、隣接する東照宮→ 普門寺→ 二体地蔵塚→
清泉寺(別窓)→総持寺→資料館に戻る半日周遊コースが面白い。普門寺の催事(だるま市(1月第3日曜)か、紫陽花の時期がお薦め)に合せれば更に趣きあり。