黒沼彦四郎らを弔ったと伝わる二体地蔵塚 

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太平記に拠れば、義貞挙兵の直接の動機になった事件とされる。元弘三年(1333)の3月11日に 後醍醐先帝から倒幕の綸旨を受けた 新田義貞 は、楠正成 (wiki) が籠った千早城の攻城戦
から離脱して本領の新田に戻った。史実との整合性は別として、義貞はこの頃から倒幕計画を考え始めた、とされている。
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折から鎌倉幕府の執権 北條高時 は近畿と中国の反乱を鎮圧するため、弟の泰家に10万余騎の兵を与え上洛させる動きを見せる。そのために武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野の六ヶ国に兵役を課し、同時に関東各地の荘園に戦費として臨時の納税を命令した。特に新田荘の世良田は豊かな地であるとの理由で幕臣の出雲介親連と黒沼彦四郎入道を派遣し、5日の間に6万貫を徴税する任務を与えた。
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  ※6万貫: 寛喜二年(1230)の史料に拠れば米一石(150kg)=銭一貫文、現代の米の価格に換算して4万円ほど。鎌倉時代末期には10倍のインフレになったと仮定して6万貫を
単純計算すると2.4億円・米1000トンになる。史料などの引用ミスがあったとしても非現実的な数字なので軍記物語の誇張表現と理解するべきか。北條高時もそこまで馬鹿じゃないよね、もしかすると馬鹿は私か? いずれにしろ義貞は既に後醍醐の綸旨を受けて決起を決めていたから、徴税事件は単に挙兵の契機に過ぎない。

右:西側から見た二体地蔵塚の全景      画像をクリック→拡大表示
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徴税の任を受けた両名は多数の部下を従えて荘家(荘園事務を司る者の家)に押し入り強引な取立てを行った。義貞は「法を超えた仕打ちだ、我が館の辺を雑人の馬蹄に懸けさせるのは無念」と怒り、弟の脇屋義助に命じて二人を捕縛。その日の夕刻には黒沼彦四郎を斬り首を世良田郊外に晒した。
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一面に畑が広がる世良田の公園近くに小高い丘があり、二体の地蔵が殺された両名を弔ったものとされるが、実際には複雑な事情があった。
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義貞が相続した新田宗家は既に没落し、所領を切り売りする窮状にあった。その大部分を買い取ったのが北條得宗家で、徴税使の一人出雲介親連は他家から強奪するためではなく、主人の所領から徴税するために派遣されていた。まぁ徴税が過酷だったのは事実だが既に義貞が口を挿む範囲を離れており、衝突の原因は黒沼彦四郎の存在にあった。
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彦四郎入道は足利氏の家臣で、新田荘のすぐ西に隣接する淵名荘(現在の伊勢崎市。朝廷とと仁和寺と醍醐寺が共同所有する荘園で管理は足利氏)の荘官だった。代々北條氏に冷遇された新田氏と違って足利一族は幕臣の筆頭であり、源氏嫡流として応分の待遇を受けている。義貞との関係が険悪な黒沼彦四郎が幕府の徴税吏を案内して無法を働いたため、只でさえ僻み半分で足利憎しの意識があった義貞の堪忍袋の緒が切れた、らしい。
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この地域には明治の頃まで数基の前方後円墳と多数の円墳が残されていたが現在は三基が見られるのみ。二体地蔵塚はその中の一つ、古墳時代の円墳と考えられている。伝承では、この塚の近くで人の争う異様な声が毎晩聞こえるため、村人が石地蔵を建てて供養したところ声は聞こえなくなった。後に近くの普門寺にあった石地蔵一体を移したため二体地蔵と呼ばれるようになった、と伝わる。従って黒沼彦四郎らを弔った墓標とする根拠は乏しい。
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太田市世良田町1286(地図)、見学は無料。駐車場はないが200m西の 世良田公園(群馬ナビのサイト)に広い無料駐車場がある。周辺も併せての探訪なら新田荘歴史資料館の無料Pに車を停め、隣接する東照宮→ 普門寺→ 二体地蔵塚→ 清泉寺(別窓)→総持寺→資料館に戻る半日周遊コースが面白い。普門寺の催事(だるま市(1月第3日曜)か、紫陽花の時期がお薦め)に合せれば更に趣きあり。


     

              左: 全体の形は既に崩れているが元々は直径15m・高さ3mほどの円墳だったらしい。公式資料を調べた限りでは発掘調査は行っていない。
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              中: 新田地域に残っている古墳は5世紀〜6世紀にこの地域を支配した豪族を葬ったもの、と考えられている。唐は660年に新羅を・668年に
高句麗を滅ぼしており、その前後に故郷を捨てて渡来し各地に定住した帰化人に関わる遺跡だろう。そこに首を晒した、ということ。
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              右: 肝心の徴税使・出雲介親連が斬られた記録は残っていないが、取り敢えず捕縛しておいて挙兵の血祭りに挙げたのかも知れない。
彼は金沢流北條氏(祖は義時 の五男 實泰)で幕府の引付奉行(訴訟関係の実務官僚)の任にあった人物。

この頁は2022年 9月 6日に更新しました。