小笠原長清 明野町と櫛形町の史蹟 

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小笠原長清 は兄の秋山光朝と共に京で 平知盛 に仕えていたが、治承四年(1180)に 頼朝 挙兵の報を聞き、母の病気を口実にして甲斐に戻った。
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平治物語に拠れば、富士川合戦の前哨戦で 「甲斐源氏の 武田信義一條忠頼小笠原長清逸見光長板垣兼信加賀美遠光 ・ 秋山光朝 ・ 浅利義成石和信光 らが駿河目代(代官)広政(橘遠茂)を討った」とある。同様に吾妻鏡の10月14日も 「武田・安田の一行は神野と春田路を経て正午前後に鉢田に着いた。駿河目代の軍は狭い道で突然遭遇したため動きがとれず、防御に努めたが長田入道と子息の二人は討ち取られ橘遠茂は捕虜になった。後続の兵は悉く逃げ去り、午後6時前後には富士裾野の伊堤に討ち取った首を晒した。」 と書いており、甲斐源氏全体が互いに連携を保ちながら転戦していたのは間違いない。
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右:小笠原長清 明野町と櫛形町の史蹟   画像をクリック→明細にリンク
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吾妻鏡の数ヶ所には挙兵当初から頼朝が甲斐源氏を従えて平家と戦ったような表現が見られるが、実際には概ね対等の立場だった。寿永三年(1,184)1月の 木曽義仲 滅亡と翌年3月の平家滅亡を経て頼朝の動員力が強化され、幕府体制の組織整備が進むに従って甲斐源氏も弱体化し、更には一族内部の分裂などに伴って主力の武田信義や安田義定が滅び、甲斐源氏は東国の覇権を握った 頼朝の御家人として生き延びるか滅亡するかの選択を強いられることとなった。
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同じ甲斐源氏の武田信光、信濃の名族 海野幸氏望月重隆 と並んで弓馬四天王と称された小笠原長清も、頼朝に従属する道を選んだ一人で、26歳で頼朝の弓馬術礼法の師範となり鎌倉幕府御家人として一族発展の基礎を築いた。嫡流は甲斐から信濃国に伴野荘(佐久市・地図)に移り、更に10kmほど東の平賀郷 (地図)を新領として獲得、弘安八年(1285)の霜月騒動に関与して粛清されるまで繁栄を続けた。
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子孫は武芸礼法に長けた 小笠原流 (wiki) として発展し、現代に至っている。
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ちなみに、安土桃山時代に信州深志(松本)の城主で小笠原長時の孫に当たる小笠原貞頼(徳川家康の家臣)が小笠原諸島を発見したという伝承がある。


     

           左: 小笠原小学校(地図)が長清の館跡と伝わる。この一帯の地名は御所庭、甲斐国史には「御所の庭は小笠原村の西にあり、松の樹が繁る
70m四方の土地が小笠原長清邸の跡である」と書かれているらしい。
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           中: 笠懸けを描いた小学校壁面のレリーフ。笠懸けは流鏑馬と同じく騎射の技術を競うものだがやや実践的で「犬追物」と共に騎射三物とされた。
小笠原長清が得意とし、弓馬術礼法小笠原流として現代に続いていることから小学校のシンボルに採用されたのだろう。
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           右: 校庭片隅に建つ小笠原氏発祥の碑だけが昔日を物語る。長清は信濃守に任じた父 加賀美遠光 の跡を継承して信濃に移り、本領の小笠原には
庶流が残った。旧地名は櫛形町、 2003年に八田村・白根町・芦安村・若草町・櫛形町・甲西町が合併して南アルプス市となった。


     

           上: 笠屋神社は小笠原小学校(長清の館跡)の約300m東の的場(字)の地にある。祭神は事代主命で相殿に大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る。
4月の御幸祭では神輿が下宮地の神部神社(地図)から上宮地の伝嗣院(地図)まで約4kmを練り歩き途中の御所庭(長清館跡)で饗応の儀式を
儀式を行っていたが、小学校になった関係で現在は笠屋神社に立ち寄っている。延宝年間(1673〜1681)前後に建設された檜皮葺きの本殿は
老朽化が激しかったため昭和42年に立て直されている。「的場」の地名も、弓馬礼法に長じた小笠原氏を連想させて面白い。


     

           左: 静謐な林に囲まれた山寺八幡神社(ここも甲斐源氏の所縁らしいが詳細不明)の横に車を停めて長清公祠堂をあちこち探し回った。
公祠堂は道路から引っ込んでいるため判りにくい。目印は「喫茶シェルブール」、横の路地を入って突き当たりにある。
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           中&右: 山寺八幡神社の約150m東、狭い路地裏に鎮座する長清公祠堂(地図)。小笠原長清は仁治三年(1242)7月に京都で死没し、長清が
清水寺近くに開いた長清寺に埋葬されたが応仁の乱(1467〜1477)の兵火で焼失して廃寺になった。
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後に子孫の丸毛長照が遺骨を掘り出して飯田市中村の臨済宗長清寺(地図)と開善寺(地図)、長照の本領・美濃赤坂の荘福寺(地図)に
分骨埋葬(分祀とも)した。その際に更に分骨埋葬したのが南アルプス市小笠原の山寺地区で、その墓地の跡が現在の長清公祠堂であり、
老朽化に伴って平成15年に修復再建されている。


     

           上: 南アルプス市の小笠原から15kmほど北に離れた明野町小笠原地区の長清禅寺。無住で多少の傷みはあるが、荒れてはいない。
右手高みに墓地があり、五輪塔は本堂の反対側・左手奥に位置する。


     

           左: 本堂に架る長清禅寺の扁額には子爵 源長生の銘がある。徳川幕府老中を務め後に従四位に叙された小笠原長行(1822〜1891年・
肥前国唐津藩主長昌の長男)の子で海軍中将・正二位。忠知系小笠原家の第十四代。
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           中: 本堂左手の突き当たり、柱に「小笠原長清墓所」と刻まれた石垣の上に大型の五輪塔が二基置かれている。
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           右: 周辺にも小型の五輪塔が点在している。隣接する福性院が中世山岳信仰に係わった関係で多くの五輪塔が散在している、らしい。


     

本堂左にある大きな五輪塔(1.1m)は昭和14年に当時の住職と檀家が近くの畑から掘り出して境内に祀り、小さな五輪塔(0.9m)は左手の
水田の中にあって「疣(いぼ)地蔵」と呼ばれていた物を昭和の末に移設したという。
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           左: 二基の五輪塔はいずれも当初の組み合せは残っていないが、形状から14世紀中盤(室町初期)以降の作と推測されている。
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           中: 小型の塔の水輪(丸い部分)に長清栄曽(法名)と刻まれているが、後世の追刻らしい。慰霊のため造られたのだろう。
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           右: 中央道を挟んで左に白根三山(北岳3182m・間ノ岳3189m・農鳥岳3023m)が見える。甲斐源氏の武者も眺めた風景だ。

この頁は2022年 8月 6日に更新しました。