相模国 岡崎義實の館跡 

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【 吾妻鏡 建暦三年(1213年・12月6日に改元して建保元年) 5月2日 】  和田義盛 の蜂起に加担して義實の嫡流は滅亡
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〜中略〜 和田親子の他に(同意して加わったのは)土屋義清・古郡保忠・渋谷高重(横山時重の婿)・土肥惟平・岡崎盛實(真田義忠の子)・梶原朝景兄弟・大庭景兼・深沢景家・
大方政直と遠政・塩屋惟守ら、親戚あるいは友人である。
 〜後略〜
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義實の跡は岡崎實忠が継ぎ、岡崎館の支城の位置づけだった真田館には若年の盛實が入ったらしい。一族は中村氏や横山氏ら相模国の武者と共に和田義盛の蜂起に加わり滅亡している。庶流の一部が備後(広島県東部)に逃れて土着し、後に足利高氏(尊氏) に従い石成庄(福山市)を領有している。
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その後の岡崎城は三浦義同(道寸)の居城となり、永正九年(1512)8月に伊勢新九郎(後の北条早雲)が攻め落として後北条氏の砦となった。義同は逗子を経て三浦の新井城に籠ったが永正十三年(1516)落城・滅亡した。死者の血が流れ込んで海が油のように見えた事から油壺の名が付いた、と。
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義同は扇谷上杉家(wiki)から迎えた養子なので三浦氏との血縁関係はない。しかし肝心の三浦本家は宝治元年(1247)に北條・安達連合軍に滅ぼされ、北條に味方して三浦を継承した庶流・義連の子孫は265年後になって小田原北条氏に滅ぼされた。北條(北条)の名は三浦一族の鬼門か?
その他、義實が登場している吾妻鏡の記載ヶ所は下記、 岡崎城址の地図墓所の地図 を参考に。

岡崎城址
右:岡崎城址と無量寺と義実の墓所。  画像をクリック→拡大表示
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岡崎城址周辺の地形図。無量寺の南西800mにある岡崎神社が平安末期の岡崎氏居館で、南の鈴川を防御の濠に利用している。
標高は約24mで無量寺より10mほど低いが、当時の館としては守りやすい規模の丘陵に見える。無量寺周辺は戦国時代に三浦氏が拡張し、伊勢新九郎の攻勢に備えて整備したと伝わる。次回は旧い居館跡一帯も探索する予定だが、痕跡は殆ど見えないらしい。
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 6月19日 】
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頼朝 が納涼と観光のため三浦に出掛けた。兼ねて指示を受けていた 上総廣常 は佐賀岡浜に出迎え、郎従50余人は下馬して平伏したが廣常だけは手綱を緩めて頭を下げたのみだった。三浦 (佐原) 義連 が下馬を促したところ、廣常は「三代に亘って下馬の礼を執ったことはない」と答えた。
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酒宴となり、出席者は各々酩酊した。岡崎義實 は頼朝の水干(簡素な平服)の下賜を願い与えられた。<廣常がこれを妬み、「この美服は義實の如き老人ではなく私こそ拝領すべき」と言い、義實は「廣常の功績は義實が挙げた当初の忠節には比べられない、同じ程度に考えるな」と言い返し喧嘩の気配となった。頼朝は宥めにくいと思ったのか、言葉を発しなかった。
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義連が駆け寄って義實を叱り「頼朝様を迎えて三浦義澄 が努力しているのに争乱を起こすのは老狂の仕業か。廣常の行動もまた理屈に合わぬ、存念があれば後日にせよ、御前で酒宴を妨げるのは慮外である」と制した。
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  ※佐原義連: 三浦義明 の三男。杉本義宗・三浦義澄の弟で、岡崎義實は叔父・和田義盛は甥。衣笠城東側の佐原(久里浜寄り)を領有した。和田の乱では義連の嫡子盛連が
義盛に味方せず北條側となり、宝治合戦(1247年)では当主の盛時(義連の孫)が北條に属して三浦領を継承した。
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【 吾妻鏡 文治四年(1188) 8月23日 】  もう一つ、75歳前後の岡崎義實と波多野氏の紛争。
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波多野五郎義景 と岡崎四郎義實が頼朝の前で対決した。波多野氏が代々継承している所領の北側を、義景が京に駐屯している隙に横領を図った件である。
義景の主張は、この土地は保延三年(1137)1月20日に祖父の遠義が二男の 義通(義景の父)に相続させたもので、横領する謂れはない、と。対して義實の主張は、孫の先法師冠者(余一の遺児)に相続させる旨の義景が書いた以前の書状がある、と。
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それに対して義景が言うには、先法師冠者は外孫だからその書状を預けたのは間違いないが、私が生きている間に欲しがるのは僭越だろう、と。義實は孫の将来を思っての事だと謝った。頼朝は「義景の主張が正当である。義實は罰として鶴岡八幡宮と勝長寿院の宿直百日を奉仕せよ。」と命じた。
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  ※波多野義景: 波多野氏当主。義實嫡男だった故・余一義忠の妻の父で、先法師冠者(後の岡崎實忠)にとっては外祖父に当る。頼朝挙兵に協力せず滅ぼされた義常(兄または
従兄弟か)に代って家督の相続を許された。
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  ※義忠の所領: 平塚市真田1−14−1の天徳寺が館の跡と伝わる。岡崎義實の本拠は3kmほど東、波多野義景の本拠は6kmほど西北西となる。


     

           左&中: 岡崎城址の標識が立つ瑠璃光山無量寺(浄土宗)。標高はこの地域で最も高い約33m、周囲の低地とは10〜20mの高低差がある。
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           右: 無量寺右手の坂下から小道を600m辿って墓所に向う。車で迂回も可能だが全体に道路が細く駐車場もないため歩くほうが間違いない。
道標には360mとあるが実際は農地の間を300m+舗装路を300m、要所には案内表示があるから迷う心配はない。


     

           左: 新興住宅地の裏手に辛うじて残る林の中が義実の墓所。宅地開発の波に飲み込まれそうで維持管理に危惧がある。
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           中: 舗装路から少し登った林の隅に数基の五輪塔が散乱し中央に標柱が建っている。どれが誰の墓かは勿論不明、管理状態は良くない。
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           右: 観光協会の説明板によれば、「義實は正治二年(1200)6月21日に由比ガ浜の自宅で没した。この墓は長男義忠の乳母を務めた吾嬬(あづま)を
埋葬した場所に義實を後から葬ったと伝わる」と表示している。

この頁は2022年 8月 1日に更新しました。