曽我物語は
「椎の木三本から八幡行氏が放った一の矢が 河津三郎祐泰 の命を奪い、続いて大見成家の放った二の矢は 伊東祐親 を外し近くの木の根に突き立った」と書いている。
祐親が立案・主催して
頼朝を主賓に迎え、関東と伊豆の著名な武士を集めた奥野の巻き狩りが終り、祐親と祐泰が東国の武士らと共に河津に向かう途中である。
工藤祐経 の意向を
受けた二人の郎党は急な傾斜の上に聳える三本の椎の木の根元に身を隠して街道を通る一行を待ち伏せていた。
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暗殺を実行した両名は池の部落(大室山の南)を抜けて鹿路庭峠(ろくろば)を越え、徳永川の西側に沿った旧道を経て大見に逃れた。一旦河津に入り伊東に戻って祐泰を葬った
祐親は喪が明けた翌年 次男祐清に80騎を与えて下手人の追討を命じた。祐清は柏峠 (現在の冷川峠) を越えて大見へ討ち入り、二人を殺して首を伊東に持ち帰った。祐親は検分
後に二人の首を大見の寺 (
最勝院 (別窓) の前身) に納めたと伝わる。八幡三郎行氏の館跡説もある
八幡来宮神社 (別窓) 、そして
大見地区の地図 なども参考に。
右:河津三郎を遠矢に懸けた大見小藤太成家の墓 画像をクリック→拡大表示
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冷川を渡る馬場沢橋の東にある旧製材所敷地(現在は解体業者の作業場)の片隅に太平洋戦争従軍の顕彰碑があり、
大見小藤太成家の墓標はその脇に建てられている。元々は
實成寺 (別窓) に近い冷川沿い (大見一族の馬場があった) の塚だったが、昭和20年代の顕彰碑建立に伴ってその横に移設された。
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笠と台は平安末期〜鎌倉初期のの様式、中央の四角い石は明和年間(江戸中期の1765年前後・徳川10代将軍家治の頃)の物らしい。何らかの理由で中央部分を失ったため補われたのだろう。正面には「南無妙法蓮華経・・・(日蓮?)大聖人」と刻まれている。更によく観察すれば内容は理解できそうだ。
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豆州志稿に拠れば成家と共に祐親を狙った八幡三郎行氏は暗殺の現場に近い伊東八幡野の住人で、昭和20年代までは墓や館跡と伝わる場所があったらしいが、これは既に失われた。個人的には八幡野ではなく、大見の伝承にある「大見郷八幡(はつま)の武士だった」と考えたいが...曽我物語は戦闘の顛末を次のように記述している。
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討手を受けた八幡行氏と仲間たちは「主人のために死ぬのは覚悟の上だ」と散々に戦った末に自刃した。大見成家は元より心の卑しい男なので合戦の場から逃げ出し、
祐清の率いる討手は狩野境※まで追い詰めて捕え、馬場沢川で首を刎ねた。
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※狩野境: 大見領と狩野領地の境界は大見川左岸の山田川の流れ込み (地図)。山田川を渡って600mほど先に 田代信綱 (狩野氏当主 茂光の外孫) が構えた砦跡があり、
少し手前には信綱の菩提寺 叢林寺がある。馬場沢は右上・鳥瞰図の「成家の墓 旧地」、ここには大見氏の馬場があったと伝わる。
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小藤太成家と八幡三郎行氏はいずれも曽我物語に登場しているだけで、他の文献や系図などには記録が見当たらない。成家が大見一族なのは間違いないにしても、後世に編纂
された大見氏系図にも載っていないのだから少なくとも本家あるいは嫡流の人物ではない (闇討ちを秘境と考えて削除した可能性はあるが) 。討たれたのは安元二年 (1176)
の10月、年齢は判らないし没年だけでは血筋を辿るのも無理で...平次實政(後に宇佐美を名乗る。家秀と同人)の子か、庶子あたりと考えるべきか。