大見郷には来宮神社が二ヶ所あり、この伝承の舞台は鳥居杉で知られた八幡(はつま)の来宮神社。古くは木宮明神と呼ばれた大見16ヶ村の総鎮守で、貞和年間(1345〜1349)に藤原祐義
※が創建した。
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一説に、伊東の赤沢山 椎の木三本で
伊東祐親 の嫡男
河津三郎祐泰 を遠矢に懸けて殺した八幡三郎行氏(
大見小藤太 の相棒)の館跡、とされる。武士の館跡が寺社になる例は多いから、安元二年(1176)の秋に追討された三郎行氏の館跡が170年後に来宮神社に変った可能性はある。
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ただし、豆州誌稿には「八幡三郎行氏の館跡は八幡野」と書かれている。館跡の痕跡は既に不明、八幡野は暗殺実行現場の「赤沢の谷」を含む地名だから、地の利を心得て先回りした「八幡(はつま)」の行氏が「椎の木三本」で待ち伏せたと考えても違和感はないが、確認する術は既に失われた。(
河津三郎血塚(別窓)を参照)
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その後に二人の暗殺者は池の集落(大室山の南)を抜けて鹿路庭(ろくろば)峠を越え、徳永川西の大幡野を通る旧道を経て大見郷に逃れた。一方で伊東に戻った祐親は次男(
祐清)に80騎を与えて下手人追討を命じた。
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祐清は柏峠(現在の冷川峠)を経て大見に入り、大見小藤太と八幡三郎を討ち取って首を伊東に持ち帰っている。祐親は首の確認後に網代小忠太に命じて大見の真言宗西勝院
(現在の最勝院の前身)に届けて供養させた、と伝わっている。祐清による大見討ち入りの詳細は
大見小藤太成家の墓(別窓)で。
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※藤原祐義: 諏訪伊藤氏の系図に祐義の名があり、伊東も工藤も藤原南家の末裔である。家紋は丸に木瓜、丸に横木瓜、木瓜、庵木瓜、上り藤、花澤潟、角菱、など。
工藤氏の傍流で、初めは伊東を称した。鎌足の十一代為憲の孫 時信の時代になって伊豆伊東を領有し姓とした。
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その孫の維永、その子駿河守維景、その子維職(伊豆工藤の祖)、その子工藤太夫家継、その子祐家に至ってニ家に分れ、一つを伊東次郎祐親と称し後に
入道、その子伊藤九郎祐清と称す。祐清は義仲に従い功を挙げた。
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家記に、当伊藤家は祐清の子清長より出たとある。伊藤九八郎清長--祐義--伊藤久左衛門祐信--伊藤八郎左衛門祐朝--伊藤八十郎祐重--伊藤主計祐政--伊藤
八左衛門祐時と続き、代々武田家に仕えた。祐時は信虎と信玄の二代に仕えて功を挙げた。祐時の子伊藤八郎祐行は勝頼に仕えた。武田滅亡の後は浪人し、
小坂の里に潜んで帰農した。その子は重隆八郎左衛門、敬神の志が深かったと伝わる。
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伊東氏の出自は狩野、狩野の出自は工藤、工藤の出自は藤原南家。家紋も同じだから伊東の子孫が藤原を名乗った可能性は高い。この系図に従えば祐義は祐清の孫となる。
祐清の討死は寿永二年 (1183) の5月・推定30歳代、その孫が八幡三郎の菩提を弔ったのなら面白いのだが、残念ながら年代が離れすぎている。また祐清は
「義仲
に従い功を挙げた」のではなく、
「倶利伽羅峠 (別窓) で義仲軍に惨敗し、京に撤退する途中の加賀篠原の合戦で討死した」が正しい。敵味方を取り違えてはいけない。
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また、祐清の子は養子にした河津三郎祐泰の遺児 御坊丸(
曽我兄弟の弟)の記録しかなく、祐清が加賀篠原の合戦で死んだ後に寡婦は
平賀義信 に再嫁した。
御房丸は越後の
国上寺 (公式サイト) で出家したが、兄弟の仇討ち実行後に鎌倉に召喚され甘縄で自殺している。従って祐清直系の子孫は存在し得ない、と推測できる。