大見・實成寺に隣接する大見城址 

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大見氏は桓武平氏の末を名乗っているが、系図が不明確な上に途中から宇佐美氏系図と交錯しているため詳細は明らかになっていない。一族の祖は 平将門 を討伐して名を挙げた
平貞盛、貞盛の孫の繁成(別説には貞盛の弟・繁盛の孫)が秋田城介(任地の実務官僚の長)となり、繁成の子・貞成が越後に土着して城一族(子孫に資国や坂額)の祖となり、
その五代後の子孫家信が伊豆に土着して大見平太を名乗った、と。
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要するに平太家信が大見を名乗った最初の人物であり、その子が平次家秀→ 平三家政(=家秀 説あり)→ 實景→ 行定と続く、らしい。そこまでは推測できるが、吾妻鏡に多くの
記事がある大見平次實政(宇佐美實政と同一人物?)が系図のどこに位置するのか、そして 伊東祐親 の嫡男 河津三郎 を遠矢に懸けて殺し曽我物語の発端となった 大見小藤太成家
は誰の子なのか...などの疑問は解消されないまま残る。
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平安末期〜鎌倉時代初期の史料を見ると、
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    狩野介茂光 が大見家秀 ・ 加藤景廉 らを率いて大島の 源為朝 を討伐した。・・・保元物語 史実は嘉応二年(1170)4月。
    伊豆から相模に向う頼朝軍の中に宇佐美三郎助茂、宇佐美平太政光、同平次實政の名がある。・・・治承四年(1180)8月20日。
    相模国府で最初の論功があった。本領安堵や新領を得た者の中に實政・家秀・家義の名がある。・・・治承四年(1180)10月23日。

大見郷 右:西側から見た狩野川支流沿い・大見郷の鳥瞰     画像をクリック→拡大表示
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さて肝心の大見城址について、どうしても地元を贔屓しがちな郷土史家の主張では「大見城は小藤太成家が築城した」あるいは「實成寺は小藤太成家の館跡」と推測している。しかし成家の名が系図などに全く見当たらないため嫡流に近い存在ではなく、實政か家政の弟または庶子だったと考えるのが妥当だろう。
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ましてや成家が 工藤祐経 に仕える郎党だった事実を考えれば好意的に見ても一族の嫡流ではなかった筈で、一介の郎党が伊東と狩野を結ぶ要衝に館と城砦を構えたとは考えにくい。
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更に付け加えれば、伊東祐親 の二男 祐清「父の命令を受け80騎を率いて大見に押し寄せて下手人の八幡三郎を自害に追い込み、狩野領の境まで小藤太成家を追い詰めて首を刎ねた」(曽我物語) のに全面衝突に至らなかったのは「大見一族が守り通すべき立場の人物ではなかった」からだろう。
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この地に土着した大見一族は八幡 (現在の中伊豆中学校近辺) に居館を構えて防御の砦を東の城山 (大見古城址・別窓) とし、後に要衝の柳瀬 (現在の 實成寺 一帯・別窓) に
移って「詰めの城」を南の城山 (大見城址) とした。共に敵の襲撃を受けた時に土塁や柵などで防御するレベルで、現代の城のイメージとは全く異なる。
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現在も残っている土塁・壕・竪堀・郭の跡などは後北条氏が伊豆支配をスタートさせた1490年前後〜秀吉によって小田原城が開城する1590年までの100年間に利用
していた遺構と推定され、もちろん風景以外に平安末期の面影は感じ取れない。


     

           左: 大見川が天然の壕を作る南西から。撮影場所の後は 最勝院 を経て菅引川と萬城の滝がある地蔵堂川、国士峠を経て天城湯ヶ島へ下る県道59号
沿いの大見川本流に分れる。狩野川台風の降雨で山が崩落した筏場は大見川上流域、上記「最勝院」頁の下段に概略を記載した。
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           中: 城址のイラスト地図。大手口(實成寺側の山裾)から頂上までの高さは約80m、遊歩道は良く整備され、10分ほどで頂上に登れる。
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           右: 城山の實成寺側、大手口鳥居。諏訪神社は正徳三年(1713)の創建(徳川六代将軍家宣の頃)、本殿は中腹のニの曲輪跡に建つ。


     

           左: 急傾斜の登り口途中から直下の實成寺本堂の屋根を見下ろす。北へ流れ下る大見川の右手に修善寺街道沿いの市街地が広がる。
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           中: 良く保存された堀切の痕跡が数ヶ所で見られる。稜線を分断して尾根伝いに本郭に攻め登る敵を食い止める防御設備だ。
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           右: ニの郭跡の平場が諏訪神社。左側の拝殿が覆屋を兼ね、通常は閉鎖されている。この内部に江戸初期建立の本殿があるらしい。


     

           左: 等高線と直角に掘られた竪堀の痕跡。直下の等高線沿いに虎口に向う道の更に先まで切り落とされ、敵兵の横方向移動を防ぐ構造。
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           中: 左画像と同じ竪堀部分から諏訪神社のあるニの郭の平場を見る。丸太の積んである平場の左が鉤の手に折れた城の虎口へと続く。
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           右: 丸太のある平場から虎口を。城の出入り口であると同時に攻防のキーポイントでもあり、両側とも急傾斜の狭い道だ。


     

           左: 虎口と主郭(本曲輪)の間の腰曲輪跡。攻め登る敵を食い止めて時間を稼ぐ最終防衛ラインだが、果たして実戦で使われたのだろうか。
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           中: 主郭の平場から眺める北側、修善寺に向う県道12号。修善寺の狩野川まで約7km、左岸の狩野境にある田代砦までは約4km。
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           右: 東の修善寺街道(川の右側)は冷川を経て伊東へ向う。中央右の細長い建物(廃業した製材所)の敷地の隅に大見小藤太の墓石が残る。
向いの山が大見古城址で、頂上に登る吾妻神社の鳥居は西側(左の裏手)にある。途中まで登ってみたが、かなり急なので今回は諦めた。


     

           左: 本郭跡から見る南の山並みは左隅が天城の主峰・万三郎岳(10年前に犬を連れて妻と登った)。右は八丁池を経て稜線が天城峠に至る。
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           中: 城址全体の整備計画は平成16年〜平成24年度まで、蛇足だが予算は約18億5千万円。周辺の小道や産直施設・季多楽も含まれる。
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           右: 本郭があった頂上の平場は20×40mほど。實成寺の墓地として使われた時期があり、明治10〜20年前後の墓石が残されていた。
この本郭と諏訪神社のあるニの曲輪の形状が造成工事で変容しているが、その他は築城当時の姿のまま残されている珍しい例らしい。