収蔵する膨大な武具刀剣はもちろんだが、大山祇神社について個人的に最も記憶に残るのは
河野通信の生涯である。
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通信の一族は
頼朝の韮山挙兵に呼応して伊予国(愛媛)で兵を挙げたが反撃を受け父の通清は戦死、嫡子の通信は逃げ延びて抵抗を続けた。勢力を回復した翌・文治元年(1185)初めには阿波(徳島)から伊予にかけての一帯を制圧、同年2月には一ノ谷で平家を撃破した後に四国へ渡った義経軍に合流して屋島の合戦に参加した。
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更に壇ノ浦合戦でも通信の率いる伊予水軍が中核となって源氏の勝利に貢献し、本領の地・伊予の実質的な支配権を認められている。この前後が通信と大山祇神社が深く関わった時代で、祭神加護に感謝して多くの武具を奉納した時期なのだろう。
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そして36年後の承久三年(1221)に起きた承久の乱では嫡子の通政が西面の武士として
後鳥羽上皇に仕えていた経緯から上皇側に味方し、鎌倉軍に敗れて通政は斬首された。通信は数々の功績から罪を減じられ、陸奥国江刺に流罪となって生涯を終えている。
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通信の三男通広の二男が、
時宗 (wiki。「ときむね」じゃなくて「じしゅう」)の開祖となった
一遍上人(延応元年・1239〜正応二年・1289)である。
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江刺で没した河野通信の墓所は確定されていなかったが、上人が各地を行脚して布教する姿を描いた一遍上人絵巻(一遍聖絵 第五巻第三段)に祖父・通信の墓所に詣でる様子が描かれており、その描写
(拡大画像)が墓所発見の決め手になった、という。現在は岩手県北上市の史蹟・聖塚として整備されている。
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奥州市にある胆沢城跡の8kmほど北、北上川沿いの台地(
こちら)である。今度東北へ旅行するときには何はともあれ直行しようっと!
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さて、本題の 大山祇神社収蔵の武具については下記に一部を記述した。