清泉寺の寺伝に拠れば、平安末期に
源義朝 の長男
悪源太義平 の妻である
新田義重 の娘が故郷の新田に帰って結んだ庵が起源である。
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義平は15歳の時に父の意向を受け手勢を率いて武蔵大蔵の秩父重隆別邸を襲撃した。ここに同居していた
源義賢(義朝の弟で
義仲 の父)を舅の
秩父重隆(秩父平氏の頭領で
留守所総検校職)もろとも殺し、その勇猛さから悪源太と称された人物。帯刀先生は皇太子の護衛を務める官職を差す。
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平治の乱では父義朝に従って奮戦したが、
清盛 の率いる平家軍に敗れた。異母弟の
朝長 や
頼朝 らと共に東国へ落ちる途中で分散し、その後に父が知多で討たれたことを知り都に戻って清盛を狙い、近江の石山寺近くで捕らえられて六条河原で斬首された。義重の娘(祥寿姫)は義平の首を都から盗み出して故郷に埋葬し、自らは落飾し妙満尼と名乗って夫の菩提を弔った、と伝わる。後に鎌倉に入って覇権を握った頼朝が艶書を送って口説いた事件も面白い。
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【吾妻鏡 壽永元年(1182) 7月14日】.
新田義重が頼朝の怒りを受けた。義重の娘は頼朝の兄・悪源太義平の妻で、頼朝は 伏見廣綱に命じて密かに艶書を送ったにも関わらず受け入れる様子がない。直接父親に申し入れていたにも拘らず、義重は御台所政子を憚って※彼女を還俗させ、家臣の師六郎に娶わせてしまった。 .
※ 政子を憚って: 嫉妬深い性格は勿論だが、政子は頼家の出産(8月12日)直前である。触らぬ神に祟りなし、これは義重の判断が正しい。
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本堂横の自然石に「悪源太之墓」との銘文があり、これが本来の墓標らしいが死没した永暦元年(1160)当時のものかは疑わしい。後世の建立と思われる左の石塔には「悪源太義平公御廟 永暦元庚辰年 正月廿五日」の文字が刻まれている。
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境内の中央に残る宝篋印塔には銘文がなく素性が不明だったが発掘により経筒が発見され、この地域を領有した徳川吉宗の次男
田安宗武(wiki)が長女の誠姫と許婚者の
伊達重村(wiki)の幸せを祈って宝暦五年(1755)に建立した経緯が判明した。ただし伊達重村の正妻は別人なので婚姻は成立しなかった、らしい。