頼朝率いる鎌倉軍は17日に大磯を発ち、松田〜関本(伊豆箱根鉄道の大雄山駅近く)〜足柄峠を経て御殿場に下り(ほぼ現在のJR御殿場線ルートで)黄瀬川沿いに南下して黄瀬河宿に本陣を構えた。
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富士川での本格的な衝突前日の20日には元々戦闘意欲の乏しかった平家軍が戦わずして敗走、調子に乗った頼朝は軍を進めて更に上洛を命じるが
千葉常胤 と
三浦義澄がそれを諌めた。常陸の佐竹(義光の子孫・常陸源氏)が平家に味方している、東国を平定してから西に向うべきである、と。頼朝は諫言を容れて黄瀬河に本陣を戻し、
安田義定 を遠江国(静岡県西部)、
武田信義を駿河国(静岡県東部)の守護として派遣した。
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但し、前述してある通り富士川合戦前後の東国勢主力は武田信義を棟梁とする甲斐源氏であり、頼朝が「守護として派遣した」という吾妻鏡の記述は当らない。駿河と遠江は「甲斐源氏が武力で制圧・占領した」と表現するのが正しい。また千葉常胤の佐竹討伐進言は(東国平定優先は正論だが)上総と常陸の境界一帯の帰属を巡って長く争っていた経緯がある。要するに常胤は平家追討よりもライバルの排除が最大の関心事だった。
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本題に戻って...富士の湧水で知られた
柿田川公園(公式サイト)から1kmほど西の
八幡神社(公式サイト・
地図) の境内には再会した頼朝と
義経 が腰掛けて打倒平家を誓い合った「対面石」と、頼朝が捨てた渋柿の種が根付いたと伝わる樹が残っている。野宿している訳でもあるまいし、頼朝本陣で石に腰掛ける必要はないだろう、と思うのは余計なことか。祭神は鶴岡八幡宮と同じく応神天皇と比売神と神宮皇后の三柱、詳しい創建は不明だが平安時代中期と推定されている。
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その後は鎌倉幕府・今川氏・後北条氏・徳川氏などの保護を受け、天正十九年(1591)には家康が東海道の足柄道を箱根路に変更した際に本道の黄瀬河方向に向いていた社殿を東海道に面した南向きに改め、社領20石と武州住人康重の鍛えた2尺8寸の太刀(現存)を奉納したと伝わっている。