下野国庁跡と下野国分寺を経て薬師寺跡と龍興寺へ
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下野を通っていた東山道は平安時代末期までは基本的に京と陸奥国を結ぶ官道で、頼朝が東国を支配下に置いた治承四年(1180)以後は
鎌倉がハブとなり、東山道は鎌倉と東北・信越を結ぶ街道の一部に変貌する。
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をクリック→「別窓」で地図を表示します。 ただし特に正確ではなく「概ねこの辺」のレベル。まぁ2km以上の誤差はない、でしょうが。
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1.
白河関 .....
1200年代初頭に廃された後は長い間放置されて正確な場所も不明になっていた。寛政十二年(1800)に白河藩主の松平定信が文献資料
などを調査し、関の明神(白河神社)が建っている小山が白河の関跡であると論証した...と伝わっているが、下の黒川驛家に記載した通り100年前の元禄二年(1689)には芭蕉が「関の明神」について記載しているから、関の存在は論証する必要などなかったはず、旧道を辿れば一目瞭然だったと思うけどねぇ。いずれにしろ発掘調査が完了し現在は全容が明らかになると共に周辺も史跡公園として整備された。
広い無料駐車場や飲食の施設あり。画像などは
白河の関
(別窓)で。
現在の道路に置き換えると、次の黒川驛家まで約15km。
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2.
黒川驛家....
現在の
道の駅伊王野
(別窓)周辺だが、正確な場所は確認できない。道の駅から少し南(
地図
)で黒川と三蔵川が合流する近くには少し気になる
睦家の字名もある。鎌倉時代初期までは白河関を通る現在の栃木県道28号から福島県道76号に続くルートだったが、鎌倉時代以後は境の明神で国境の峠を越える国道294号と併用され、芭蕉が通った元禄二年(1689)には廃道同然になっていたらしい。
現在の道路に置き換えると、次の磐上驛家まで約17km。
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3.
磐上驛家....
国宝の
那須国造碑
(wiki)や
侍塚古墳群
(wiki)のある湯津上地区だろうか。
那須官衙遺跡
(公式サイト)は既に箒川右岸段丘(
地図
)での
発掘調査で確認されている。隣接して
県立なす風土記の丘資料館
(公式サイト)もあるが、驛家跡はまだ確定に至っていない。
現在の道路に置き換えると、次の新田驛家まで約19km。
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4.
新田驛家....
那須烏山市と喜連川町(さくら市)の境界にある。大型建物群の跡
長者ヶ平官衙遺跡
(栃木県のサイト・
地図
)を芳賀郡衙と推定、その北にある
厩久保遺跡
(参考サイト・
地図
の付近)が驛家の可能性が高いらしい。既に埋め戻しが終わり原状を見ることはできない。
現在の道路に置き換えると、次の新田驛家まで約20km。
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5.
衣川驛家....
史料には
「衣川右岸で三川の南」
などの記述が散見される。「鬼怒川」は栃木の旧名を使った毛野川が衣(きぬ)川・絹川・転訛であり、
平成四年(2002)のパチンコ店新築工事に伴って出土した宇都宮市平出町の
上野遺跡
(外部サイト・
地図
)が東山道沿いの住居跡と確認された。驛家跡は未確認だが、東山道は平出町近くで鬼怒川を渡河していたと推察できる。
現在の道路に置き換えると、次の田部驛家まで約22km。
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6.
田部驛家....
正確な場所は未確認だが北関東道工事で出土した上神主茂原・河内郡官衙遺跡(東西250×南北390m、政庁跡や多くの正倉跡が
出土・
地図
)や、その西側700mの下水施設建設工事で出土した西下谷田遺跡(初期の官衙または豪族の館跡と推定・
地図
)、官衙遺跡から4km弱南の石橋駅東400mで出土した多功遺跡(複数の瓦葺建物跡を含む建物群跡・
地図
)を結ぶエリアに驛家があったらしい。
現在の道路に置き換えると、次の下野国府まで約15km。
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7.
下野薬師寺
..
北側の多功遺跡からの距離は約4km、国分寺を経て思川対岸の下野国府までの約15kmは当時のメイン・ストリートだろう。
近くには下野に左遷された道鏡が没した道鏡塚のある龍興寺もある。詳細は下記で。
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8.
北台遺蹟....
出土した東山道跡を復元した小さな公園。どうせなら昔の姿に造成して欲しかったが、全然面白くない。詳細は本文で。
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9.
下野国府....
既に発掘調査が終り史跡公園の様相を呈しているが少し荒れている。当時は約1町(108m)四方の土塀が囲む北寄りに正殿と前殿が、
東西両側に脇殿が南に口を開いた「コ」の字に並んでいた。南門からは真っ直ぐ南下する巾9mの官道(東山道)跡も派遣されている。約2km東の下野国分寺との間には思川が南北に流れている。敷地北側には入場無料の
下野国庁跡
(記念館のサイト)がある。無料駐車場完備。
現在の道路に置き換えると、次の三鴨驛家まで約22km。詳細は本文で。
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10.
三鴨驛家 ...
東北自動車道佐野藤岡IC西側、現在の
道の駅みかも
(別窓)の付近か。三鴨が三加母または三毳に転訛した可能性がある。
山頂の三毳神社(奥宮)は養老五年(721)に蝦夷討伐に向った多治比真人が戦勝を祈って日本武尊を祀ったのが起源。多治比真人は武蔵七党・丹党の祖とも言われ、
多胡碑
(別窓)にも記載が見える人物。三毳山は万葉集の相聞歌にも歌われている(詳細は道の駅のページで)。
道の駅の駐車場が利用できる。現在の道路に置き換えると、次の足利驛家まで約19km。
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11.
足利驛家 ...
JR両毛線足利駅と線路を含む南側一帯の500m四方(渡良瀬川左岸・
地図
)で出土した建物跡群(国府野遺遺跡)が足利郡家と推定される。
足利驛家もこの周辺にあったのだろうが、周辺は住宅密集地のため発掘調査は部分的で史跡を見学できる状態でない。どうしても付近を歩きたいなら400m北の足利学校筋向いに観光用の無料駐車場がある。
鑁阿寺
(別窓)を参考に。
現在の道路に置き換えると、次の新田驛家まで約14km。
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12.
新田驛家 ...
太田市中心部の村田町(
新田義貞
挙兵の地と伝わる
生品神社
(別窓)の近く)から東の北関東自動車道にかけて複数の東山道跡が出土した。
中でも
入谷遺跡
(公式サイト・
地図
)からは多くの建物跡が発見され新田郡庁跡と推定された。東山道は現在の県道39号ルートに近く、驛家も郡庁の近くにあったのだろう。現在の道路に置き換えると、次の佐位驛家まで約13kmしかない。
この距離の短さは新田驛家が武蔵国へ南下する官道との分岐点だった事が関係しているのかも知れない。
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13.
佐位驛家 ...
東山道は真っ直ぐに西へ、上野国府のあった現在の前橋市街地に向っていた。JR伊勢崎駅北東5kmの上植木本町で佐位郡庁跡と推定される
三軒家遺跡
(伊勢崎市のサイト・
地図
)が出土し、八角形の倉庫跡が確認され、これが佐位驛家の一部で、驛家も郡庁の近くにあったらしい。
現在の道路に置き換えると、次の上野国府まで約17km。
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14.
地図は途切れたけど群馬驛家 ...
上野国府跡はまだ確認されていないが、新前橋駅の北1.5kmにある元総社町の宮鍋神社(
地図
)一帯にあったと
考えられている。群馬驛家は宮鍋神社の東南約2kmの利根川西岸にあったらしい。東山道は国府から西へ延び、現在の道路に置き換えると約19km西の野後驛家(のじり・後の中仙道安中宿)を経て碓氷峠に向う。
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この頁は2019年 9月13日に更新しました。