下野国分寺は持統天皇四年 (西暦690年、都が明日香だった頃) に代々下野国(栃木県)地域を支配した豪族下毛野古麻呂(下野国造家・正四位下・参議・大将軍)が氏寺として創建したのが最初、と伝わっている。
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古麻呂は40代天武〜41持統〜42代文武天皇に仕え、藤原不比等 (鎌足の二男で嫡子、藤原氏の祖、兄は出家)らと共に大宝律令の成立(大宝元年・701年)に貢献した人物。
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和銅二年 (709年、平城遷都の前年) に古麻呂が没した後も下野薬師寺は国家の庇護を受け、仏教の隆盛に伴って大いに繁栄した。聖武天皇が 国分寺建立の詔 を発して各国に建立が始まったのが天平十三年(741)、当時の東国では最大規模の仏教施設だった。
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仏教の繁栄と共に権力の腐敗や民心の離反などが常態化して戒律を守らない僧が増え、更には生活苦に耐えられなくなった庶民が勝手に出家して税を逃れるなどの問題が深刻化した。朝廷はこの状態を打開するため正式な授戒(仏弟子となるための道徳基準を授ける儀式)を行える高僧を唐から招き、統一したシステム造りに着手した。
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この招聘に応じたのが律宗の開祖
鑑真和尚(wiki)で、天平勝宝五年(753)の来日と共に、正式な授戒の儀式を行なう権限を持つ三ヶ所の寺院(三戒壇)が定められた。
南都の
東大寺(公式サイト)、筑紫の
観世音寺(wiki)、そして東海道の足柄峠および東山道の碓井峠から東の授戒を受け持ったのが下野薬師寺である。
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宝亀元年(770)には
弓削道鏡(wiki)が左遷され別当に就任しているように、下野薬師寺は特定の教団を持たず、朝廷が庇護する官寺として更に隆盛を極めていく。
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延暦四年(786)には東大寺で受戒した
最澄 が比叡山に寺(後の
延暦寺・公式サイト)を開いた。第50代桓武天皇は平安遷都(794)に伴って最澄に帰依し、更に大同四年(809)に入京した
空海 が真言密教を開いて
東寺・公式サイト)の管理を担った事などを契機にして仏教界は分裂の時代を迎え、三戒壇も徐々にその権威を失ない始めた。
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各々の流派は権力者と結託して戒壇の許認可に血道を挙げ始める。時代を越えて繰り返す宗教戦争、現代の主役は露骨に政治に関与する創価学会が腐敗の根源だ。
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下野薬師寺は平安末期から鎌倉時代・室町時代にかけて数度の衰退と復興を繰り返し、戦国時代の1500年代後半の小田原北条氏と結城多賀谷氏による兵火で堂塔を焼失し廃寺同然の状態まで零落した、と伝わる。徳川幕府四代将軍綱吉の時代には二つの別院(不動院の末・安国寺と、地蔵院の末・龍興寺)が薬師寺の正統を争って訴訟を重ね、「安国寺は戒壇を、龍興寺は鑑真墓所を守護し継承する」と和解をして現在に至っている。ただし鑑真は天平宝字七年(763)唐招提寺で死去しているから龍興寺の墓所もただの慰霊碑に過ぎない。