あまりにも有名な、土肥椙山の「しとどの窟」 

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JR東海道線の湯河原駅から温泉街の中心に近い観光会館まで約3km、観光会館から奥湯河原のパークウェイ方向と県道75号(椿ライン)の分岐点まで約2km、分岐点から「しとどの窟バス停」(駐車場あり)までジグザグの登り道を7km弱、そこから舗装された白銀林道を200m進んで城山隧道を抜けた先が「しとどの窟」入口で、数台の駐車スペースがある。ここから急な下り坂を400mほど歩いた先が目的地で、下った距離を再び登って戻らなければならないのが辛い。
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石橋山合戦に続く堀口の合戦でも敗れて土肥椙山に逃げ込んだ頼朝主従と 「しとどの窟」 を結びつける資料は皆無だが、如何にも「頼朝主従が隠れて暫しの休憩をとった」雰囲気があるから面白い。
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源平盛衰記では、頼朝主従が隠れた倒木の洞を怪しんだ大庭景親を制して梶原景時が頼朝の命を救った経緯を描いている。詳細は「土肥の大椙」の項に記述してあるが、要するに「頼朝主従がしとどの窟に隠れているのを知りながら梶原景時が見逃した」などは軍記物語にさえ書かれていない捏造に過ぎない。
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頼朝が山中を逃げ回った事実+隠れるのに適した洞窟の存在+観音像を納めたという吾妻鏡の記述+景時が頼朝の味方をした、それらを組み合わせた結果が源平盛衰記での頼朝と梶原景時と大庭景親の遣り取りになり、しとどの窟で景時が頼朝を庇ったという土肥の伝承に発展したのだろう。
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後述するが真鶴海岸の漁港近くにも「鵐(しとど)の窟」という洞窟の残痕があり、昭和初期には合併前の吉浜町(現在の湯河原町)と真鶴町が「しとどの窟」の正当性を巡る論争があった、と伝わっている。目くそと鼻くそが論争しているような雰囲気ではある。


     

           左: 「かながわの景勝50選」の一つ、椿台の展望。大観山から下る県道75号(椿ライン)が城山の尾根で大きく右に曲り、湯河原温泉街をすぐ下に
見る絶好のポイントである。左が城山の南麓、好天なら伊東の大室山や天城連山、初島や伊豆大島も眺められる。
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           中: 県道のカーブ頂点から千歳川中流の湯河原温泉街を眺める。温泉街の背後には箱根から日金山を経て伊豆山へ落ち込む山並みが続く。
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           右: 閉鎖になった休憩所の一階がトイレ、ここに駐車して上の遊歩道を登ると城山へ登るルート、下の白銀林道が「しとどの窟」への道になる。


     

           左: 駐車場所から白銀林道を200mで「しとどの窟」に下る手前の城山隧道入口側。トンネルの上には椿台から城山頂上への遊歩道がある。
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           中: 城山隧道北側から椿台方向を。左手の「しとどの窟」へ下る入口に駐車できるが過去には車上狙いがあった。不安なら椿台に止めよう。
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           右: 舗装道路は白銀林道として箱根湯本まで約27km続いているが通行止めになっているケースが多く、開放と閉鎖の基準が良く判らない。
原則として一般車は通行止め、他に荒天や積雪や地震などの場合は閉鎖される、らしい。


     

           左&中: この一帯は弘法大師や地蔵信仰の霊場でもあり、龕(がん)に納めた石仏や灯篭が林立する。ここから急な坂道を400m下る。
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           右: 石灯籠の並ぶ参道は良く整備されているが徐々に急勾配になり、最後の20mは岩の軒下を通り抜ける細道になる。帰り道は辛い!


     

           上: 箱根権現(別窓)から日金山(別窓)の一帯は古来から山岳宗教の修験地。更に弘法大師信仰・観音信仰・地蔵信仰などが渾然一体となって並ぶ。
石仏の撮影に「しとどの窟」を訪れる写真愛好家も結構多い。私は数枚撮影して素通りする縁なき衆生だけど...。
まぁ満開の桜を撮りたくて前を歩く人に「どけっ!」などと怒鳴るカメラ爺に比べれば、ここは穏やかな雰囲気が感じられる。


     

           左: さらに下り坂が続く。5月の新緑が美しいが、秋の紅葉もまた捨てがたい。堀口合戦場から直線で3kmほどの新崎川源流部である。
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           中: 参道が少し開けた場所から幕山の山裾に岩登りの壁が見える。この谷が源平盛衰記の「谷に入り倒木の洞に入った」云々の場所、か。
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           右: 大きな岩の手前で遊歩道の下りが終わり、右に迂回して再び登る。この右手に幕山公園に下る小道があるが、現在は崩落で通行止め。


     

           左: 崩れそうな岩棚を回り込むと、すぐ上が「しとどの窟」。椿台から下るよりも幕山公園から必死に登って来る方が落ち武者の苦労が味わえる。
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           中: 窟の前から撮影。新崎川に向って谷が切れ込んでいる。文献に「しとど」が現れるのは源平盛衰記で、「田代信綱 が木の上で防ぎ矢を射て
大庭勢を食い止めている隙に佐殿(頼朝)は鵐の岩屋と言う谷に下り...」とあるのが最初にして最後、である。
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           右: 数日前の雨が集まって小さな滝になり、窟の前に流れ落ちている。果たして「しとど」の語源は「濡れる」の意味か、小鳥の古名だろうか。
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※佐殿: 頼朝は都で武衛の(四等官(督・佐・尉・志)の二位)だった。武衛は天皇家を護衛する組織である兵衛府のこと。


     

           左: 洞窟の間口は約10m、数度の崩落を経て昔に比べて狭くなったらしい。奥行きは浅いが、確かに10人程度が休めるほどの広さがある。
           中: 内部には石仏が2〜30体も置かれている。観音像が多いように見えたが、なぜこの洞窟が信仰の対象になったのか、由来は判らない。
           右: 「しとどの窟」は頼朝が隠れた場所として神奈川県の史跡指定を受けている。前の平場は長い年月で土砂や樹木が堆積したのだろう。

この頁は2022年 8月 1日に更新しました。