寺伝に拠れば青蓮寺仁王門に立つ金剛力士像(画像は下に掲載)は
運慶 の作とされている。それなりに迫力のある作風ではあるが史料などの裏付けがなく、これは真作ではないだろう。青蓮寺を中心にした岩松地区(当時の呼称は「いぬま」)に
新田(源)義国 の舘があり、屋敷の南方に石清水八幡宮を勧進したのが現在の岩松八幡宮と伝わる。
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建保三年(1215)に鎌倉幕府は
義重 の嫡男
義兼 の死去に伴い遺言を追認して後家の新田尼を岩松、下今居、田中郷の地頭に任じた。
貞応三年(1224)に新田尼は溺愛した孫の時兼
※に居館と岩松郷を譲り、幕府は嘉禄二年(1226)に時兼の岩松郷地頭職を追認した。
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※時兼: 生母は新田義重の孫娘。彼女は初め
足利義兼 の庶長子
義純 に嫁して時兼と時朝を産み、元久二年(1205)に
畠山重忠 の追討に
伴って重忠の正室だった
北條時政 の娘が足利義純の正妻として再嫁した。名門畠山の名跡を義純が継ぐ名目であり、重忠の所領および武蔵国の支配権を手中にすると共に足利氏との血縁関係を深める政略結婚である。
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義純の正室だった義重の孫娘は必然的に離縁となって二人の男子を連れて新田に戻り、祖父母である
新田義兼 夫妻の溺愛を受けて広大な所領を相続した、と伝わる。一説には、その溺愛が新田衰退の要因になった、と。
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ちなみに、弟の時朝は岩松系田中氏の祖となり、渡良瀬川下流域に大きな被害を与えた
足尾鉱毒事件 で知られた明治の政治家
田中正造 は時朝の子孫を称していた。
話のついでと書いては貧農救済に尽くした偉人に失礼だが、佐野市周辺に残る
田中正造の遺蹟(別窓)に記載した。その他の旧跡もいずれ改めて訪問を考えたい。
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その他の資料を併せると、この地にあった岩松館には晩年の義国と子の義重と孫の義兼が住んだらしい。青蓮寺山門の東には岩松館跡公園があり、西側の三菱電機群馬工場の敷地内には中屋敷があったとされ、新田岩松氏館跡の石碑が建っている。岩松氏所縁の地なのは間違いないが、本来は新田源氏の祖である義国と義重親子の館跡で、後に岩松氏(時兼)が住んだと考えるべき。義貞挙兵がキャッチフレーズの観光地としては、新田源氏の始祖を売り込むよりも「太平記がらみ」の方がインパクトが強い、と考えたのだろう。
義国は河内源氏
八幡太郎義家 の三男で母は藤原有綱の娘。長兄の義宗が早世し次兄の義親が失脚したため河内源氏の嫡流と期待されたが、弟の義忠と連合して叔父
義光 と戦う(常陸合戦)などの荒っぽい行動が朝廷に咎められ、父の義家にも疎まれた。ただし義光は後に義忠を殺害してその罪を自分の兄である義綱とその嫡男義明に着せ、義家の後継を狙った人物である。義国の行動の方に正当性があったのかも知れない。
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康治元年(1142)、義国は所領である足利を安楽寿院に寄進して足利荘とした。のちに足利を二男の
(足利)義康 に相続させ、新田に移って利根川北岸を開拓し広大な新田荘を確立、久寿二年(1155)に新田で没している。墓所は足利の
鑁阿寺(別窓)境内の赤御堂裏手にもあるが、新田に伝わる夫妻の墓は青蓮寺東200mの畑の中にポツンと建つ神社の裏手に残る。妻の墓と伝わるのは義重の母である上野介藤原敦基(七十二代白河天皇の近臣で摂政関白藤原師實の家司を務めた当代随一の文人)の娘だろうか、それとも義康の母である村上源氏・源有房(平家に近い歌人・正四位下左中将)の娘だろうか。
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義国の長男
義重 は新田氏の祖となり、二男
義康 は足利氏の祖となった。混乱しやすいのは新田義重を継いだのが
義兼 で足利義康を継いだのも(同名の別人)
義兼 だった事。足利義兼は家督を継ぐ筈のなかった三男で、長兄の義清(義重の猶子)と次兄の義長(共に庶子?生母は不明)は
義仲 に従って平家と戦った水島合戦で戦死、足利荘に残っていた義兼(足利)が家督を継ぐ結果となった。
参考までに書くと、「義清と義長=庶子」説には異論があり、「
北條時政 の娘(
時子 を正室に迎えていた義兼の家督相続を正当化するための捏造」とも考えられている。
共に七代後の子孫が
足利高氏 (尊氏) と
新田義貞、協力して鎌倉幕府を倒した後は北朝と南朝に分れ覇権を争う事になる。
両家の家紋 までが興亡を表現しているのが面白い。
新田と北條、簡単には表現できないほど深い因縁を抱えている。