観光スポット化した栗橋駅前の静の慰霊墓と、遺品が残る古河の光了寺 

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JR東北線栗橋駅(東武日光線も乗り入れている)のすぐ前、かなりローカルな商店街の一角に 静御前 の慰霊墓がある。このページの写真を撮ったのは10年も前だから様変わりしているだろうな、なるべく早く再訪したいなと思いつつ...念願叶って2012年10月、画像など一部を更新。

右:利根川の両岸、栗橋から古河に続く静御前の足跡   画像をクリック→拡大表示
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静は文治五年(1189)9月15日に2kmほど西の松永で生涯を終えたと伝わる。
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侍女の琴柱がこの地にあった高柳寺(或いはその近く)に遺骸を葬ったが、その後の利根川氾濫で寺も墓石も失われた。それを哀れんだ関東郡代中川飛騨守忠英が享和三年(1803年・徳川十一代将軍家斉の頃)5月に「静女の墳」の墓碑を建立した。
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同じく境内にある「舞う蝶の 果てや夢見る 塚のかげ」という歌碑は江戸の歌人坐泉の作を村人が文化五年(1806)3月に建立したもので、右写真の「義経招魂碑」も後世の建造である。著名な史跡があると矢鱈と石碑が増えるのは世の常だね。
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藤原泰衡義経 を殺した直後の5月、静はようやく太田荘須賀(宮代町 ・ 地図)を経て下河辺荘高野(杉戸町 ・ 地図)に辿り着いた。ここから古河の関所である元栗橋(茨城県五霞町・地図)を目指したが、関所での取り調べが厳重なため八甫(鷲宮町・地図)から高柳(栗橋町 ・ こちら)に抜けて高柳寺に一泊した。
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翌日に奥州路を辿って下逸見(茨城県古河市 ・ 地図)に着いた静は義経が先月平泉で自刃したことを旅人から知らされて精根尽き果て、伊坂(栗橋町 ・ 地図)まで引き返した。既に生きる望みを失っていた彼女は伊坂で剃髪し、義経の菩提を弔おうと考えたが...三ヶ月後の9月にこの世を去った。
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元々の光了寺は武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあった高柳寺で、利根川の氾濫で流失して常陸国古河中田に移り光了寺に変わったらしい。しかし寺伝では弘仁年間(810〜823)に 空海(弘法大師)が創建した事になっているし、利根川流路の東遷に伴ったとは言え武蔵国から常陸国へ5kmも北東に移転するのも理屈に合わないから疑問点はあるが、過去帳には彼女の戒名として「巖松院殿義静妙源大姉」が残っているという。
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2013年10月5日 加筆: 江戸時代初期に行われた東遷事業以前の利根川は道の駅がある川俣 (国道122号昭和橋付近) から南に流れ、久喜市高柳を経て松伏近くで現在の
中川流路となり東京湾に注いでいた。従って高柳寺は当時の利根川流路の北東、武蔵国ではなく下総国にあった、高柳寺と光了寺の間を隔てる川
など存在しなかったと考えるのが合理的なのかも知れない。


     

           左: ずっと以前に初めて立ち寄った時は砂利敷きの空き地に「静女の墳」と「義経招魂碑」が建っているだけだったが、ピカピカの石畳になった。
左に見える「静女の墳」は最近は石造りの厨子の中らしい。その更に左側が「義経招魂碑」、著名な場所だが、さして存在意義はない。
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           中: 「これじゃあ墓石業者の展示場だろ」って言いたくなるような廟所。しかもこの場所は静の墓地とは無関係なのだから著しく興ざめする。
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           右: 左から、昭和四年(1929)建立の義経招魂碑と、昭和六年建立の静女所生御曹司供養塔(鎌倉で殺された赤子の慰霊墓)。


     

           左&中: こちらは明治二十年(1887)建立の「静女冢(墓の意)碑」と、拡大表示。漢文を読める方はどうぞ。著したのは滋賀県出身の政治家で
書家としても著名な巌谷修、児童文学者・巌谷小波の父で従兄弟の子孫に民主党の二流政治家・岡田克也が出ている。
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           中の右: 石造りの厨子に納められた「静女の墳」は享保三年(1803)、利根川氾濫の復旧工事を指揮した関東郡代中川飛騨守忠英が建立した。
この一角では最も古い石造物、といっても200年前に過ぎない。
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           右: 光了寺のある中田に向って、利根川左岸(茨城県側)から下流を。静も眺めた風景と書きたい所だが当時の利根川流路は8kmも南側で、
ここを流れていたのは渡良瀬川の下流らしい。しかも中田地区は常陸国ではなく下総国の領域だった。


     

           左: 古河市中田の厳松山光了寺、本尊は阿弥陀如来立像。親鸞聖人作と伝わる聖徳太子立像・静の懐剣・蛙蟆龍の舞衣などを収蔵する。
以前は9月の一日(日付は忘れた)のみの公開だったが現在は予約制になったらしい。どうせ撮影は禁止だろうけど。
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           中: 更に静の戒名として巖松院殿義静妙源大姉も残されている。義経は雪の吉野山で「私の所在は武州葛飾光了寺の僧である叔父に聞けば判る。
あなたは一度京に戻り、来年の春になったら東海道を下って光了寺を訪ねよ」と静に言い残した、と。これは完全に捏造だと思うが原典が判らない。
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           右: 安政二年(1855)に書かれた利根川図志に載っている挿絵。墨一色なのが残念だけど、挿絵の添え書きは下の段に転載した。
ポスターからの転載した 舞衣の画像、何とか見付けた 舞衣の小さな写真。これは「傳説と奇談」(古書で出回っている、ややゲテ物傾向のある
民俗紹介本)に載っている。
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静女舞衣図  地黒く種々の糸にて文(あや)を繍せり  幅1尺5寸5分(47cm) 長2尺5寸(76cm)
義経朝臣鐙  この太い筋は鉄で他は木、木地のままである。
静女懐剣(無銘)  義経朝臣所賜 惣長9寸8分程(30cm)で反りは弱い 柄の部分は2寸3分5厘(7.1cm)

この頁は2022年 8月 9日に更新しました。