【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月23日 】 石橋山合戦の条、概略
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月18日 】
頼朝は24日の富士川合戦に備え (20万騎を率いて) 黄瀬河 (沼津 黄瀬川) に到着。(甲斐源氏 武田信義 から) 駿河目代橘遠茂との合戦や波志田山での俣野景久との合戦に関する経緯を聞いた。また荻野五郎俊重・曽我太郎祐信らが降伏して出頭した。 .
【 吾妻鏡 治承四年(1180) 11月17日 】
頼朝は(常陸の佐竹を討伐して)鎌倉に戻った。今日、曽我太郎祐信 が(石橋山での敵対を)恩赦された。また 和田義盛 が侍所別当に任命された。
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伊東氏と曽我氏との具体的な関係は不明だが、伊東の通字である「祐」を曽我家でも使っており、既に嫡子の祐綱
※がいるにも拘わらず二人の男児を連れた
河津三郎祐泰の後家で
出産直後の
満江 を後妻として受け入れた (安元二年・1176年) 事を考えると、ある程度以上の関わりがあったのだろう。
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満江が曽我に再嫁した時に連れていた二人の子の兄 一万 (後の
十郎祐成) は五歳で弟の筥王 (後の
五郎時致) は三歳。曽我の嫡子 小太郎祐綱の年齢は不明だが寿永三年 (1184)
2月の一の谷合戦には祐信が従軍していること、翌・文治元年 (1185) 10月の勝長寿院落慶供養には祐綱が随兵として参加している事などから、承安二年 (1172) 生まれ
の十郎祐成よりも少し年長と推定できる。
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※曽我祐綱: 吾妻鏡の建久二年 (1191) 2月4日、頼朝ニ所詣の行列に従う後陣随兵の名簿に曽我小太郎の名が見える。曽我兄弟の仇討ちは2年後の建久四年 (1193)
5月。祐綱は嫡子として頼朝御家人に列したが、後妻の連れ子 十郎と五郎の暮しは不遇で、何らかの方法で自活の道を探す必要があったのは間違いない。
左:城前寺近くの梅林から冠雪の富士山を。 画像をクリック→拡大表示
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弟の筥王元服の際には曽我祐信の経済的援助が受けられず、縁戚の 北條時政 (兄弟の父河津三郎の姉が時政の亡妻 ) が援助をして
烏帽子親となった (この経緯から仇討ち=時政主導のクーデター説が発生)。兄弟の貧しさが祐信の薄情によるのか、実際に祐信
が貧しかったのか、箱根権現で出家する筈の筥王が仇討ちを目指して元服したので祐信夫妻の配慮を得られなかったか。いずれに
しろ貧しさと将来に希望のない境遇が仇討ちの背景にあったのは事実だろう。実際に曽我庄を歩いて見ると館跡を囲む土塁は一辺
200m以上、館の跡地も100m四方ほど。仇討ち後に祐信が語った所領も狭く元服費用を捻出できなかった云々」は、嘘だ。
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【 曽我物語 巻一 御房が生まるる事 】
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河津三郎四十九日の翌日、妻の満江は無事に男子を出産した。「何と運のない子だろう、私も尼になり夫の菩提を弔うから
共には暮らせない、怨まないでおくれ」と捨てようとしたが、これを聞いた河津三郎の弟 九郎祐清 が妻 (比企の尼 の娘)を
寄越して「何と言う事を。亡き人の形見は我らが育てて片身にします」と申し出た。「私がこの有様なので思いもよらず
有り難いこと、そう仰るのであれば」と赤子を渡した。祐清は信頼できる乳母をつけ、御房と名付けた。
【 曽我物語 巻一 女房、曽我へ移る事 】
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河津三郎が没して80日、子が産まれて30日が過ぎた。百か日になったら出家するつもりで袈裟など調えたのを祐親が伝え聞き、人を介して申し出たには「誰が子供を
育てるのか、老いて衰えた祖父母も頼りにはならぬ。三郎が死んでも形見として幼い子が残っているのを考えよ。祐親に縁のある相模国の曽我太郎という人物が先般妻を
亡くし嘆いていると聞く、そこへ再嫁して心を安んじるが良い。祐親の縁だから大事にしてくれるだろう。」と細かく言い付け、人を付けて監視したため尼になることも
できない。祐親は曽我太郎祐信に委細を書き送り、祐信は大いに喜んで伊東へ出向き、子供らを共に迎えて曽我に帰った。
このようにして満江は辛く悲しい事と怨みながらも月日を過ごしたのである。
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そして建久四年 (1193) 5月28日深夜、曽我兄弟が富士の巻き狩りで仇討ちを決行 (詳細は別項で) 。曽我祐信は兄弟が御家人を殺した罪への連座を酷く恐れたが共謀した
事実はないと判断されて罪には問われなかった。事後処置は次の通り。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 5月30日 】
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夕刻、頼朝の飛脚高三郎高綱が富士野から鎌倉に参着した。祐成兄弟の事件を御台所政子に伝えるためである。また祐成と時致の最期の様子などを母の許に送って返答を
求めると、幼い頃から父の敵を討とうとした事などを細かく書いた返書を提出した。頼朝は涙を拭いながら読み、長く文箱に保管した。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 6月7日 】
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頼朝が (巻き狩りの) 駿河国から鎌倉に戻った。曽我太郎祐信には暇を与え曽我庄の年貢を免除して兄弟の菩提を弔えと命じた。彼らの勇敢さに感銘した結果である。
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駿河国平澤寺※の住職で兄弟の叔父にあたる宇佐美禅師は富士裾野の現場に出向いて遺骨を受け取り、6月3日に曽我庄に埋葬した。禅師が祐信館の南西に庵を建て兄弟の菩提を
弔ったのが城前寺の起源とされる。実際に館の推定位置は城前寺北東の丘である。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 12月15日 】 祐信に関する最後の記載
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大御堂法要導師が到着する旨の使者があり、出迎えの御家人派遣や馬を手配した。三浦介義澄 が5頭、和田左衛門尉義盛 が4頭、梶原平三景時 が2頭、中村庄司 (景平?)
が5頭、小早河彌太郎 (土肥實平 の子 遠平) が5頭、渋谷庄司武重が5頭、曽我太郎祐信 が2頭、原宗三郎景房が1頭。 .
【 吾妻鏡 建暦三年(1213) 1月2日 】 祐信嫡男・祐綱に関する最後の記載
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執権 北條義時 が椀飯を献じた。役人は次の通り。御剣は武蔵守、御調度は左近大夫康俊...五の御馬は南條七郎と曽我小太郎(祐綱)。 .
※布袋山自在院平澤寺: 和銅年間(708〜714)に行基が地蔵菩薩を刻んで安置、養老二年(718)にも七体の観音を刻んで一体を納めた。
寿永年間(1182〜1183)に堂宇を焼失したが本尊の千手観音と延命地蔵尊は火災を免れた。公式サイトは
こちら。