義貞の反町舘と新田館跡(總持寺)と江田館 

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反町館
右:義貞の反町館周辺の鳥瞰図    画像をクリック→拡大表示
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太田市新田反町町896(地図)  無料駐車場あり  見学無料
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八幡太郎義家 の孫で 義国 の子 義重(庶長子)は父と共に利根川と渡良瀬川に挟まれた広大なエリアを開墾して新田を名乗り一族の祖となった。
一方で義重の弟で義国の嫡男である 義康 が足利氏の初代となっている。義重は保元二年(1157)に開墾地を左衛門督藤原忠雅に寄進する事で新田荘を立荘、新田庄司となって上野国南部の実権を掌握した。その後は秩父党や足利党との争いを経て北関東に勢力を確立した。
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新田義貞足利高氏(尊氏)は共に両家の八代目に当たり、血縁関係であると同時にライバルでもあった、と考えられる。ここでも 新羅三郎義光以来の源氏の宿命・同族争いが起きた、という事か。
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鎌倉時代と直接の関係はないけれど、義重の子 世良田義季 が新田の得川郷を領有して徳川家の祖になったとするのが家康一族が主張する根拠だが、これは明らかに系譜の捏造である。征夷大将軍の称号を受けるのは源氏と考える傾向から、徳川家は源氏の子孫であると主張するために新田の庶流 得川氏の系譜を利用した...それが現在の定説らしい。
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新田義貞が元服後に住んだのが反町舘と伝わるが、確定できる史料はない。南北朝時代になって各地を転戦した義貞が不在になった頃には一族の大館氏明が住み、更に義貞の次男義興が住んだ
時期もあったと伝わっている。現在も堀や土塁が残る平城で、天正十五年(1590)の秀吉小田原攻めに伴なって落城し廃城となった。現在の城跡の中心は照明寺である。
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  ※藤原忠雅: 平安末期〜鎌倉初期の政治家で従一位・太政大臣。政略と婚姻関係により平氏政権下で重用され、鎌倉政権が安定した元暦二年(1185)に政界を引退し出家、嫡子兼雅に
後継を譲る動乱の時期を経て一族の地位を保全し、花山院家繁栄の基礎を築いた。
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  ※大館氏明: 義貞の曽祖父政氏の弟・家氏を祖とする庶流で、家氏−宗氏−氏明と続く。宗氏は息子の氏明、幸氏、氏兼と共に激戦の極楽寺坂攻防戦で討死、稲村ヶ崎に主従11人の塚が
残っている。氏明は南朝の伊予国守護となり、世田城(今治市朝倉)で戦死した。
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  ※照明寺: 高野山真言宗で本尊は伝 空海(弘法大師) 作の薬師如来、瑠璃山妙光院照明寺 (しょうみょうじ) 。地元では反町薬師として親しまれている。和銅元年(708)に 行基が開いた
法相宗の寺が館の近くにあり、正徳四年(1714)に焼失して現在地に移ったと伝わるが詳細は不明。


     

              左: 壕と土塁に囲まれた内側は照明寺の境内となり城跡の雰囲気はないが、戦国時代には三重の堀が囲む本格的な防衛拠点だったらしい。
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              中: 現在は新田荘遺跡と一部として国の史跡に指定されている。境内の桜と籐の花が美しく、春には大勢の花見客で賑わうスポットだ。
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              右: 新田の後は後北条に属した由良氏が領有して金山城の出城となったが小田原落城と共に廃城となり、由良氏が照明寺を創建した。


     

              左: 広い駐車場はフラットで木陰も多いが、1月4日の大縁日と桜の時期には酷く混雑する。ジョイフル本田(公式サイト・約1km北西)のPも利用できる。
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              中: 南側土塁の外側。画像の右(南方向)側にやや狭い堀が残り、土塁との間には舗装道路。三重だった堀は内側だけが残っている。
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              右: 約2mの高さの南側土塁は往時の雰囲気を残している。内側には桜の古木が続き、土塁に沿った部分は花見時期のベストスポットとなる。


     

              左: 館跡の一角は東西約200m・南北約150mの台形をなす。生品神社までは約2km、共に「太平記の里」の中核をなす史蹟だ。 (地図
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              中&右: 東側の堀の巾は40mに近い。南側の敷地の一部が広げられて籐棚が造られ、5月上旬には見事な花房を見せてくれる。



右:新田館・館の坊跡(總持寺)   右手400mに義平菩提寺 画像をクリック→拡大表示
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太田市世良田町3201(地図)  無料駐車場あり  見学無料
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正式には威徳山陀羅尼院総持寺、創建は正平年間(1346〜1370)。足利鶏足寺の僧慶範が岩松八幡宮の真光寺・世良田の清泉寺(頼朝 の長兄 悪源太義平 の菩提寺)、館の坊の三寺を合併させて真光寺と名付けた、と伝わる。その後に二世住職となった足利鶏足寺の僧慶賢が總持寺に改めたらしい。 本堂には新田義貞と伝わる木像があり、義貞(ぎてい)様と呼んで毎年8月1日には祭典が行われる。
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敷地の一辺は約200m、元々は惣領家である新田氏の館跡に建てられた寺で、別名の「館の坊」とも呼ばれる。西を流れる早川を天然の堀とし残る三方に掘った水濠で全体を囲っており、発掘調査によって東と西に濠の跡、また建物の礎石や井戸跡などが発見された。新田一族の中でも惣領家に近い者が住んだと推定され、新田初代義重の居館説・世良田頼氏の居館説・義貞の居館説などがあるが、確定には至っていない。
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1km圏内には義平の首を葬った清泉寺、徳川家の意向で建造された東照宮と併設された東毛歴史資料館、世良田一族の館跡などが点在し、新田荘史蹟探索の欠かせないエリアになっている。
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  ※世良田頼氏: 義重−義房と続いた新田宗家を継いだ三代政義が愚行により寛元二年(1244)に失脚、惣領権は宗家から世良田義季(義重の四男)と岩松時兼が引き継いでいる。
政義愚行の詳細は別項(金剛院円福寺の項)で述べる。
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  ※岩松時兼: 足利義純義兼 の庶長子)の子。父の義純が 畠山重忠の未亡人(北條時政 の娘)を正室に迎えて畠山の名跡と所領の一部を継承するため、今までの妻(従兄弟である新田義兼
の娘)と彼女が産んだ息子の時兼と時朝を離縁にした。二人は新田一族に戻って新田を称し、宗家滅亡後は新田岩松氏、田中氏と呼ばれるようになる。
新田氏が北條と確執を続け、更に後には足利氏と戦った原点はこんな経緯が遠因だった、のかもね。


     

              左: 寺伝に拠れば總持寺は新田義重が祖父義家所縁の京都石清水八幡宮を分社して岩松の宮とし、真光寺を建てたのが始まりとされる。
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              中: 一族の住んだ世良田館に建てた護摩道場の「館の坊」に真光寺を移し總持寺と改めた。義貞はこの館から出陣した、とも伝わっている。
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              右: 義重の四男・義季がこの地を相続し世良田を名乗った。更に義季の庶子頼有が南東の得川郷を相続、家康が子孫を主張する根拠となった。



右:世良田氏の支族・江田氏館跡 鳥瞰      画像をクリック→拡大表示
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太田市新田上江田町922(地図)  駐車場あり  拝観無料
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新田義貞 と共に挙兵し、鎌倉攻防戦で極楽寺坂攻めの大将として大仏貞直率いる幕府軍と戦った江田行義の館と伝わる。
江田氏は 新田義重 の四男 世良田義季 を祖とする世良田氏支族で、行義は義貞の死没後も南朝側で戦い続けた勇将。館跡は東西約80m・南北約100mの土塁と堀に囲まれ南の土橋が虎口となる。
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戦国時代には金山城の出城として反町館とともに整備され、金山城主由良氏の四天王の一人矢内四郎左衛門が守将だった。天正年間になって小田原北条氏はまず江田館を奪って金山城を攻略の出城として利用、結局は北条氏の支配下に入ったが、後に北条氏滅亡(1590)と共に廃城となった。
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南北朝時代の江田行義は足利尊氏と対立した義貞に従って各地を転戦し結局は敗北したが、備後国(広島県東部)に土着して姓を守下に改め、九代に亘って足利氏の目を逃れたとの伝承も残っている。
文禄年間(1592〜1596)に至り、行義から十代後の守下大善が旧領の新田荘に戻った、と伝わっている。
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江田館跡は反町館跡と同様に中世平城の代表的な遺構で、本丸跡の堀之内は東西に屈曲部分を持ち、外郭には本丸の西と南を鍵型に囲む二の丸がある。
本丸から北東方向に並ぶ黒沢・毛呂・柿沼の屋敷跡に見られる土塁と堀は全て後北条時代以後の遺構と推定されている。


     

              左: 北西側の小道から水田越し(今でも田圃かどうか判らないけど)に江田館の丘を見る。西の石田川に向って緩やかに下っている。
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              中&右: 敷地の四方を水濠が囲み、その内側にはセオリー通り土塁を巡らしてある。その一部は現在でも鮮やかに確認できる。


     

              左: これは北東側の角から撮影した画像。昔は水濠だった部分が遊歩道になっている。右側が土塁、左側は隣家の敷地になる。
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              中: 虎口(正面出入り口)の近くから北西方向を撮影。館を囲む土塁が見事に残っている。現在は公園状態になっているらしい。
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              右: 土塁の内側は立ち入り自由、良く管理され広々とした草地になっている。左隅に見えるのは北側の敷地外に建っている民家。

この頁は2022年 9月 6日に更新しました。