本堂も庫裏も新しくて美しいが、山門から本堂までの短い参道に面して物干し台があり、紫色の派手な女物下着がぶら下がっていた。参道の右側に
頼朝 所縁の祠があると聞いていたのだが、下着泥棒だと疑われそうなので捜すのは中止。誰が干したのか知らないけど、これは曹洞宗の品位を落とすね。
妻の意見・・・若い娘でしょ、最近は無神経だから。 私の意見・・・いや、この無神経さは厚顔な中年女だと思うね。
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そんな経緯があって早々に退散した。伝承に拠れば、源氏の再興を願って三嶋大社への百日詣でを続ける頼朝が疲れた足をこの寺で癒した、と。案内板には「頼朝公の祠・頼朝駒爪の橋・頼朝公木像・弘法大師木像・聖観世音菩薩と三十三観音像」などを収蔵している、とあった。
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その他、天正十年(1582)の甲斐武田氏滅亡後に遺臣の道乗と道吉が落ち延びてこの地に土着し開墾に専念していたが、追手が迫ったため境内で自刃。その年の3月に韮山南條の昌渓院
※六世の麒庵東麟大和尚禅師
※を中興開山和尚とし、二人の菩提を弔い荒廃した堂宇を再興して曹洞宗に改めた。
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文化十一年(1814)8月15日の火災で寺宝古文書過去帳を焼失したが、本尊の延命地蔵菩薩は難を逃れた。文政六年(1823)4月には本堂を再建、昭和二年(1927)4月に書院庫裏を再建、昭和四十七年に現在の本堂を再建、平成十四年に境川改修に伴う山門と「頼朝駒止めの橋」などが完成、と表示されている(
地図)。西側は道が細いから、専用駐車場のある東側(川沿い)から訪問すると良い。それと、いつも下着が干してあるとは限らない、と思う(笑)。
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※昌渓院:韮山南條といってもかなり東側、伊勢新九郎(後の北条早雲)の居城だった韮山城の南東、反射炉の北500mほどの山裾(
地図)にある。
天正十八年(1590)の秀吉による小田原攻めでは韮山城に10倍以上の大軍を迎えた智将北条氏規が100日以上も籠城戦を展開した。その際に攻撃側が築いた付け城(攻城戦のための城)遺構が昌渓院北側の山に残っている。
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※麒庵東麟大和尚:三島
常林寺(公式サイト)の開山和尚も務めている。安土桃山時代の伊豆に於ける曹洞宗の名僧だったらしい。