躑躅ヶ崎 武田氏館跡と信玄夫妻の墓所 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」の記載ヶ所へ    「索引」 へ  「旅と犬と史跡巡りと」のトップページ

.
右:武田氏の本拠 躑躅ヶ崎館(武田神社)鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
.
武田氏館は躑躅ヶ崎館とも呼ばれ、信玄の父信虎が永正十六年(1519)に石和から本拠を移したのが最初となる。
新羅義光 の次男 源義清 が嫡子の 清光 と共に常陸国から甲斐に移ったのが大治五年(1130)、清光の孫 石和 (武田) 信光 が文治元年(1185)頃に甲斐源氏の棟梁となってから340年ほど後に甲府が武田氏の城下町となり、天正十年(1582)に信玄の嫡子勝頼が躑躅ヶ崎を放棄し、450年続いた甲斐源氏の繁栄に幕を降ろすことになる。
.
武田氏滅亡の70年後には躑躅ヶ崎の南に甲府城(信光の長兄 一條忠頼の館 一條小山の跡)が築かれ、豊臣氏を経て徳川時代末期には幕府直轄→ 甲府藩→ 幕府直轄と変遷した。敗残の近藤勇が部下を再編して甲府城制圧に出陣し、勝沼で惨敗した事件でも知られる。
.
躑躅ヶ崎館は約200m四方の主郭(現在の武田神社)を中心にして数ヶ所の曲輪を配した平城である。南側には格子状の道路を整備して家臣団の住居や城下町が拓かれていた。武将の館としての機能は充足していたが城としての堅固さには欠けるため防御には向かず、勝頼がここを放棄したのもその理由による。信玄の時代には甲斐に入る峠の各所に防衛の拠点を設け、狼煙などの連絡網を整備して外敵に対応していた。人は石垣 人は城、そう謳われた時代は冷酷に過ぎ去っていく。


     

           左: 北西から見た武田氏の館跡絵図。現在の武田神社が元の本郭、躑躅ヶ崎館は本郭東側にあった。南側の甲府城址(一條小山)までは約2300m、
標高差は約60mだから平地に近いなだらかな傾斜と言える。
.
           中&右: 現在の武田神社絵図。武田氏の館跡は天正十年の一族滅亡後に破却され、「古城」または「御屋形跡」と呼ばれていた。
大正四年(1915)に天皇即位を記念して信玄に従三位が追贈され、大正八年(1919)には社殿が竣工して新たな武田神社がスタートした。
旧・例大祭だった4月12日前の土日には恒例の 信玄公祭り (wiki) を開催する。


     

           上: 正面の神橋と、左右に延びる巾15mほどの水濠。南側と西側と東側の一部だけが水濠で、北側の全面と東側の一部は土塁と空濠が
残っている。神社敷地の北側と東側は神橋部分より20m以上高いため館の創建当初から空濠で、山地が防衛ラインだったらしい。
休日などの行楽時期でなければ右側の参拝者用スペースに駐車できる。右に迂回して境内の東側にも無料駐車場あり。


>     

           左: 神橋から石段を渡って神域へ。左右の石垣と石段は古色蒼然としているが築造年代は判らない。躑躅ヶ崎館は天正年間に破却され、330年が
過ぎた大正年間に武田神社として復活した。石垣や石段や堀が武田信玄時代の姿を残していたのかは疑問である。
.
           中&右: 参道と本殿。大正時代の創建と考えると何とも味気ない。祭神は武田信玄、宝物殿(入館300円)には三条夫人(信玄の正妻)の実家の
末裔である三条実美太政大臣が明治天皇に従って訪れた際に奉納した吉岡一文字の太刀(鎌倉時代末期の作)などを展示している。


     

           上: 武田信玄の焼骨塚。信玄は天正元年(1573)4月12日に伊那駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村駒場)の陣中で死没(53歳)、遺体は付近の
長岳寺(外部サイト・地図)に安置後、甲斐に戻った。信玄は臨終の際に「死没を三年間秘匿せよ」と命じ、嫡子勝頼は土屋右衛門昌次邸で
遺体を荼毘に付して密葬、三年後に恵林寺に改葬して葬儀を行った。
.
200年後の安永八年(1779)に密葬場所を甲府代官中井清太夫が発掘、6〜7mの地中で「法性院信玄居士天正元年癸酉四月十二日薨」と
彫った石棺を確認して元に戻した。この時に東花輪村の田中喜衛門・西花輪村の内藤正助ら52人の武田家旧臣有志が石碑を建てて聖域とした。
碑文は圓光院住職愚應の書。毎年4月12日には墓前法要を行っている。
.
※密葬した場所: 崩したり鍬を入れたりすると祟りが起きたため魔縁塚と呼ばれていた。中井清太夫は「祟りが起きれば責任を負う」として発掘し、
6〜7mの地中で「法性院信玄居士天正元年癸酉四月十二日薨」と彫った石棺を見つけた、と伝わる。
.
※土屋右衛門昌次: 信玄二十四将の一人。天正三年(1575)の長篠合戦で父と共に戦死、家督は五男の昌恒(惣蔵)が継いだ。
昌恒は天目山の武田氏滅亡に際し勝頼自刃の時間を稼ぐため奮戦、26歳で討死した「片手千人斬り」で知られている。
詳細は本文後段の 武田氏滅亡の地(別窓)で。昌恒討死の年に生まれた嫡男土屋忠直は後に家康に召し出され、秀忠の
小姓を経て久留里藩二万石の領主となっている。


     

           左: 武田信玄の墓碑。正面に「法性院大僧正機山信玄之墓」とある。香台には武田菱、台石は読み取れないため右の画像で。
.
           中: 墓碑銘の詳細。内容を転載し始めたが変換できない文字が多すぎてギブアップした。内容は左側の注釈を参照されたし。
塚の地図はこちら、武田神社から約1kmで路駐もできるし下記圓光院の駐車場から約400mを歩いても良い(坂だけどね)。
.
           右: 信玄の正室(後室)三条夫人の菩提寺・瑞巌山圓光禅院(臨済宗妙心寺派)。武田氏遠祖逸見太郎清光が創建した小石和清光院が原型。
後に武田信守(信玄の父信虎の曽祖父)が父信重の牌寺(位牌を納める寺)として成就院と改め、更に永禄三年(1560)に信玄がこの地に
移し甲府五山の一つ圓光禅院と改めた。
.
            ※三条夫人: 京都の公家・三条公頼の二女。今川義元の媒酌で16歳の天文五年(1536)に晴信(信玄)と婚姻し義信・信親(竜宝)・黄梅院
(北条氏政室)・見性院(穴山梅雪室)を生んだ。元亀元年(1570)7月28日に50歳で逝去、法号は圓光院殿梅岑宗「い」
(草冠の下に白為)大禅定尼。ちなみに、嫡子勝頼の生母は側室の諏訪御料人(後に信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘)。
.
            ※甲府五山: 臨済宗に帰依した信玄が京都・鎌倉の五山制度に倣って甲斐国の古刹を府中城下に集め臨済宗妙心寺派に改めた。
序列・格付けなどの資料は残っていない。法蓋山東光寺・定林山能成寺・長禅院・瑞巌山圓光禅院・金剛福聚山法泉寺。


     

           左: 本堂に架かる扁額。三位云々と読めるが浅学の悲しさ、風格はあるのに誰の揮毫だか判らない。
.
           中&右: 信玄の正妻(継室)三条夫人の墓 左大臣・転法輪三条公頼の次女。姉には細川晴元室、妹には顕如の妻の如春尼がいる。
元亀元年(1570)7月28日に死去、享年50。子には嫡子ながら謀反に関わったとして粛清された義信、北条氏政室となったが信玄の
駿河侵攻により離縁された黄梅院、一族滅亡とともに自殺(殺害とも)した盲目の海野信親、11歳で早世した信之、穴山梅雪に嫁したが
梅雪滅亡後は家康に庇護された見性院、などがいる。穏やかな人柄と伝わっているが、子供らは不幸な一生を送ったようだ。

この頁は2022年 8月 6日に更新しました。