【 慶派の仏師と東国の関係について 】.
頼朝 は源氏嫡流の権威を重視する立場から、平安末期に最も評価の高かった奈良仏師の正統
成朝 (wiki) に勝長寿院本尊の阿弥陀如来像を造らせた。一方で御家人の関東武者の棟梁たちは
興福寺(公式サイト)を本拠とした新興の奈良仏師グループの傍系である
慶派 の仏師、康慶・運慶・實慶らを多く利用した。これは頼朝の選択に踏み込まない「忖度」と共に、写実と豪壮を正面に押し出した作風への共感や、コスト意識も左右したのだろう。
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個人的には韮山の願成就院にある仏像数体は
運慶 の作ではない、と思う。しかし年代からだけ考えると、頼朝の命令を受けた
北條時政 は文治元年(1185)10月に入京し
義経 追討の名目で朝廷に圧力を加えて守護地頭の設置を認めさせ、翌年4月に鎌倉に帰還している。そして 運慶が韮山・願成就院の造仏を始めたのは翌・文治二年の5月3日と記録されているから、計算は見事に合致する。
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運慶はその後に京都へ帰るが関東での仏像の需要は続いており、慶派の一部は東国に定着して造仏に従事した。
實慶 もその一人であり、主として伊豆近辺での注文に応えていたと想像出来る。
時政が平井郷(函南)で戦死した嫡男
宗時 の菩提を弔って実慶に彫らせた阿弥陀如来三像を新光寺に寄進した可能性も考えられるが、宗時の死が治承四年(1180)で時政が失脚して実権を失ったのが元久2年(1205)、
実慶が
修禅寺(別窓)の大日如来を彫ったのが承元四年(1210)、などを考えると時系列の面ではやや疑問が残る。
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※桑原薬師堂の仏像: 桑原地区から函南町に寄付され、平成24年初夏に
「かんなみ仏の里美術館」(公式サイト・
地図)が完成した。
入館料は300円、空調完備で仏像の劣化を防いでいる。
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下の画像は薬師堂収蔵時代の白黒画像で、クリックすると修復後の画像に切り替わる。イメージが変わったのは喜ぶべきか、悲しむべきか。
十二神将について.
仏教における神々で、薬師如来の12の願いを実現するために働き、昼夜の12の時間・12の月・12の方角を守る。12の神将が7千づつ、併せて8万4千の眷属夜叉(部下の戦士)を率いており、日本では十二支と結びついて動物をシンボルとしているものが多い。薬師堂など薬師如来を本尊とする堂宇では薬師如来像を中心にして配置される。最も知られているのは奈良新薬師寺の12体で、その11体が国宝に指定されている。
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桑原薬師堂で最も古いものは創建された藤原時代(藤原氏が摂関政治を行った平安中期〜後期)の3体で、鎌倉時代の像は4体、江戸時代の像が5体。12体揃わないと本来の役目を果たせないため何かの事故などで失われるたびに補充して造られたと考えられる。本来なら十二支に従って子・丑・寅・・・と並べるべきだが、面倒なので(笑)時代順に記載した。
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参考までに、画像を二点。 新薬師寺の国宝・
薬師如来像(高さ191cm・平安初期、作者不明) と 興福寺の国宝
板彫十二神将像(部分)。