義貞の愛妾 勾当内侍の墓(伝・義貞の墓、とも) 

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右:館林つつじが岡公園の「匂当内侍遺愛のツツジ」 樹齢800年、樹高5m、花は紅色
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「花見塚公園」  表示看板から転載    尾高町商工観光課
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江戸時代の初期までこの地にはつつじが一面に咲いていた、と伝わる。鎌倉幕府打倒と建武の中興に功績を挙げた 新田義貞後醍醐天皇 の側近くに仕えていた 勾当内侍 を恩賞として下賜された。
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当代一の美人と言われた内侍のために義貞は新しい館を構え、各地から集めたつつじの名木を庭に植えたと伝わる。義貞没後の内侍は剃髪し、この地に住んで義貞の菩提を弔った。その縁により、この地は柊(ひいらぎ)塚あるいは花見塚と呼ばれていたという。
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寛永四年(1627)に領主の榊原(松平)忠次はこの場所のつつじ数百本を城下の館林に移したと伝えられる。現在の つつじが岡公園(公式サイト)の古木がそれで、樹齢800余年を過ぎた木もある、と言う。現在の公園は世界一のつつじの名所となっている。
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その後の当地は義貞と内侍の墓と伝えられる墓石のある墳丘とこの公園に至る道筋に小字「花見道」の地名が残ってわずかに往時を偲ばせていたが、全町史跡公園化計画の一環として所縁の地・館林から若木のつつじを求め、公園として整備したものである。
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「館林つつじが岡公園の案内表示」
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このあたりは、建武元年(1334)に新田義貞が妻の勾当内侍のために植えていたツツジを、第九代館林城主松平(榊原)忠次が、新田郡武蔵島村(現在の太田市)から移植したと伝えられる所で、これが世に伝わる「勾当内侍遺愛のツツジ」と呼ばれているものです。


     

              左: つつじの植栽の他には特徴がない畑の中の小公園だ。義貞の別邸があった可能性までは否定できないが勾当内侍に関しては捏造だろう。
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              中&右: 義貞は建武三年(1336)2月11日の摂津豊島河原の合戦(wiki)で 足利尊氏 の軍勢を破り、尊氏は京都を放棄して九州へ逃げようとした。
この際に義貞が追撃が遅れて好機を逸したのは史実で、この理由には諸説あるのだが太平記は 「勾当内侍との別離を嫌った義貞が出陣の
機会を逸した、後に勾当内侍は北陸で転戦中の義貞に招かれて旅立つが途中で戦死を知り、獄門の首級を見て落飾した」
と描いている。
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江戸時代には太平記の流布に伴って各地に「勾当内侍の墓」が造られた、その一つが花見塚なのだろう。

この頁は2019年 11月 11日に更新しました。