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ここでは概ね幕府と新田軍の戦いから由比ヶ浜周辺に触れているが、記述した以外にも見過ごしたくない史跡は多い。特に若宮大路から東の大町・材木座・小坪・
名越周辺は違うタイトルに従って充分に時間を掛けて歩きたいと思う。鎌倉時代の海岸線は現在より100〜200m前後内陸側だったと推定されており、増え
続ける人口を吸収するため由比ヶ浜に近い集団埋葬地を人骨ごと掘り崩して埋め立てに使うことさえもあった、そんな事実を含めて。
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武士階級の精神的支柱として臨済宗が隆盛し、被支配階級の拠り所として
一遍上人 の唱えた時宗や
忍性菩薩 の唱えた律宗や
日蓮 が唱えた法華宗が広まっていく。
海沿いに点在する寺社に伝わる歴史や宗教の興廃からも鎌倉を見る必要もあり...鎌倉一筋縄では扱えない場所、なのだ。
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蛇足...鎌倉の世界遺産登録が見送りになった。初めから「初の武家政権を生んだ都市」という主張に無理があった、と思う。京都や奈良に比べて歴史も浅く、
古い建造物も少ない鎌倉を登録する必然性は乏しい。本来なら平泉も登録には値しないが、「平和を希求した宗教都市の側面を訴える」という戦略が的を射た、
それだけの事だ。
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実際には「戦乱の中での平和」は初代
清衡 の中尊寺建立供養願文に見られるだけの夢物語に過ぎず、登録を勝ち得たのは陸奥と出羽の歴史の本質を知らない外国人
の琴線に訴える技術が優れていただけ。観光産業への寄与を狙った世界遺産登録に本質的な価値などあるはずもない。

左: 極楽寺坂から塔の辻まで、直線に近かった古道ルート。住宅密集地なので必ずしも昔の通りに辿れる訳ではないが、概略は推定できる。地図に落とした
青の点線で描いたのが鎌倉中央部と極楽寺坂を結ぶ古道のルート。
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中: 古道のルートから少し北に離れた文学館入口交差点近くに建つ「染屋太郎大夫時忠邸址」の碑
(地図)。碑文は下記の通り。
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染屋太郎時忠ハ藤原鎌足ノ玄孫ニ當リ 南都東大寺良弁僧正ノ父ニシテ 文武天皇の御宇(皇紀一三五七〜一三六二)ヨリ聖武天皇ノ神亀年中(一三八四〜
一三八八)ニ至ル間鎌倉ニ居住シ 東八箇国の總追捕使トナリ 東夷ヲ鎮メ一ニ由比長者ノ称アリト伝エラルルモ 其事跡詳ナラズ 此所ノ南方ニ長者久保ノ
遺名アルハ 彼ノ邸址ト唱エラル 尚甘縄神明宮ノ別當甘縄院ハ 時忠ノ開基ナリシト言フ 昭和十四年三月建 鎌倉町青年団.
女帝・持統天皇の後継となった第42代文武天皇の在位は683〜707年 (大宝律令と官位制度を定めた頃) 、神亀年中は724〜729年 (陸奥国に
多賀城を設けた頃) を指す。平城 (奈良) 遷都の前、明日香一帯に都があった頃。染屋時忠が生きた時代は
新田義貞 の鎌倉攻めを更に600年も遡る。
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右: 染屋時忠 碑から由比ヶ浜大通りを横切って更に北西の山裾に向うと甘縄神社。安達盛長 が最初に館を設けた一族の本拠地でもある。
盛長の跡を継いだ
景盛 は三浦氏の隆盛による安達一族の衰退を危惧し、老齢の身を押して隠棲の高野山から25年ぶりに鎌倉入りして後継一族を厳しく
叱咤し、即刻の三浦邸攻撃を命じた。宝治元年(1247)に三浦一族が滅亡した宝治合戦である。執権
北條時頼と協調して最大勢力の御家人 三浦氏を
滅ぼした景盛は高野山へ戻り、一年後に没した。吾妻鏡は三浦軍の出陣ルートを次のように描いている。
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(景盛を継承した) 安達義景 と孫の泰盛 が率いる軍勢は甘縄の館を走り出て門前の小道を東へ進み、中の下馬橋 (若宮大路) を北へ折れ八幡宮寺の赤橋を
渡って陣形を整えた。神護寺門外に出 て鬨の声を挙げ、公義五石畳紋の旗を掲げて筋替橋の北に進み鏑矢を放った。

左: 美しい挿絵の文庫本からTVドラマになった「ビブリア古書堂の事件手帖」は、鎌倉彫りの老舗「わや」の建物外観を転用していた。
ドラマとしてはマシな方だったが、この豊かな感性が必要なテーマに取り組むのなら、出演者の人気に依存しない程度の気概は欲しかった。
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中: 「わや」の前を通る古道は100m先で由比ヶ浜大通りに合流する。塔の辻に近い古道との交差点から、稲瀬川に向う古道を撮影した。
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右: 由比ヶ浜大通りとの交差点付近も既に往時の雰囲気を失っているが、古道ルート入口の角に「塔之辻」の語源・五輪塔残欠が置いてある。

左: この石塔が元からこの場所にあったのか道路拡幅などで場所を移した塔なのかは判らない。昔は宝篋印塔が建っていたとの話もある。五輪塔の様式が
東国に定着したのは鎌倉時代の初期だから染屋時忠に関わる出来事と無関係なのは確かで、おそらくは古道筋に残っていた石塔だろう。既に頂頭部の
空輪と風輪と中央の丸い水輪を失っている。「塔之辻」に纏わる伝承は下記の碑文を参照されたし。
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中: 古道ルートと由比ヶ浜大通りの交差点から一方通行を50mほど北に入った左側に「塔之辻碑」が建つ。鷲が連れ去った我が子の消息を探し、
路傍に肉や骨を見付ける毎に我が子かと思って供養の塔を建てた由比の長者・染屋時忠に関わる伝承である。
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佐々目ヶ谷ノ東南ニ方リ路傍二所ニ古キ石塔建テリ 辻ニ塔アル故ニ塔之辻ト言フラン 伝ヘ言フ 昔由井ノ長者太郎太夫時忠ノ愛児三歳ノ時
鷲ニ攫ハレ追求スレドモ得ズ 父母ノ悲痛措ク処ヲ知ラズ 散見セル片骨塊肉ヲ得ルガマゝニ 是レヤ吾児ノ骨 彼レヤ吾児ノ肉カト思ヒツゝ
所在ニ塔ヲ建テゝ之ヲ供養シ 以テ其ノ菩提ヲ祈レリ 是ノ故ニ鎌倉諸処ニ塔之辻ト言フ処アリ 此処モ其ノ一ナリト 或ハ言フ 往時ノ道標
ナラント 未タ其ノ何レガ真ナルヲ知 ラズ 昭和四年三月 鎌倉町青年団
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鎌倉には七ヶ所の塔の辻があったという。大町の二ヶ所、辻の薬師堂(医王山長善廃寺跡・
地図)と妙法寺(日蓮の松葉ヶ谷草庵跡)裏山の鷲塚(
地図)、
移転などを重ねたため本来あった場所とは言い難い。次の鎌倉訪問には立ち寄ってみようか。
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染屋時忠の息子(の一人)は東大寺創建の功労者として初代の別当を務めた
良弁僧正 (wiki) 。一説に相模国の豪族漆部氏の出身、あるいは近江国
百済氏の出身ながら幼い頃に鷲に攫われ、義淵僧正に育てられた、とも伝わる。とすると、鷲に攫われたのが幼い頃の良弁僧正本人または兄弟姉妹か、
その場合は話がやや複雑になる。蝦夷または敵対勢力による誘拐または殺害と考える説もあるらしい。
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東大寺の開山堂に祀られる国宝の良弁僧正像は
こちら(木造彩色・91.4cm・サイト内リンク)、没したのは宝亀四年(773)だが法要は何故か
寛仁三年(1019)で、この像が彫られたのもその前後と推定されている。
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右: 由比ヶ浜大通りは六地蔵を経て若宮大路の下馬交差点に至る。信号の向い側、ガソリンスタンドの前に「下馬」の碑文は下記の通り。
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往昔鶴岡社参ノ武人ハ 此ノ辺 ニテ馬ヨリ下リ 徒歩ニテ詣デタルニ因リ 下馬ノ称アリ 今ニ地名トシテ存ス 此ノ地点ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ
以テ屡々戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ 尚ホ文永八年九月十二日 日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上鶴岡ニ向ヒ 八幡
大菩薩 神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顕ハシタマヘト大音声ニテ祈請アリシハ下馬橋附近ナリト伝ヘラル 昭和十三年三月建 鎌倉町青年団

左: 六地蔵の先400m、佐助川に架っていた「下の下馬橋」をイメージした橋桁が見える。ここから八幡宮までの若宮大路は騎馬が禁止され、横断でも
下馬するのが義務とされていた。若宮大路には八幡宮の源平池に架る「上の下馬橋(赤橋・太鼓橋)」、現在は段葛の基点である二の鳥居近くを流れて
いた扇川(既に暗渠)に架る「中の下馬橋」を併せて三つの下馬橋があった。
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中: すぐ横で滑川に流れ込む佐助川に架かる琵琶橋(地図)。頼朝 が鎌倉に入る前は楽器の琵琶に似た形にカーブする「琵琶小路」があった。
政子 の安産祈願を兼ねた段葛造営に伴って直線に姿を変え、小路にあった弁財天の祠は八幡宮に移設(源氏池の旗挙弁財天)して祀った。
元の祠の跡が「琵琶橋」になった、と伝わる。この橋から300m上流の今小路に架かるのが
裁許橋(別窓)、六地蔵近くの刑場に向かう罪人が
渡った橋だ。滑川の対岸には
北條時頼 の室(
北條重時 の長女
葛西殿・ wiki) が正慶年間(1332〜1334)に開基を務めた
帰命山延命寺
(浄土宗のサイト)がある。すぐ西側を流れる滑川架かるのが延命寺橋。
現在は六地蔵の南西から第一小学校の北を通って若宮大路に至る一方通行の小道(
地図)を琵琶小路と呼んでいる。
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右: 下馬交差点から約500m由比ヶ浜寄りの左が鎌倉簡易裁判所。建物裏手の駐車場左隅、目立たない場所に「萬霊供養塔」が建っている。
昭和二十八年(1953)からの発掘調査で敷地から910体の遺骨が発見された場所である。
もともと由比ヶ浜周辺から大量の人骨が出土する例は多く、数百体を越える集団埋葬地が何ヶ所も発見された。もちろん自然死や病死もあったため
め正確な分類は困難だが、比企一族や畠山重保や和田義盛一族や三浦一族、そして鎌倉陥落に伴う北條一族など多くの戦乱による死者も含まれている
と考えるべきだろう。
この頁は2022年 9月 13日に更新しました。