地頭の伊東一族と日蓮に所縁の海光山佛現寺 

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右:伊東市役所と佛現寺・佛光寺周辺の鳥瞰図   画像をクリック→ 拡大表示
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立正安国論の建白が原因で伊豆に流された日蓮 に帰依した地頭の伊東八郎左衛門朝高が邸内の毘沙門堂を住まいとして与えたのが始まり。寺宝に日蓮自筆の曼陀羅、海中出現釈迦立像、訳の判らない天狗の詫証文などを収蔵している。
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日蓮の流罪、救出の経緯、海から現れた釈迦仏、日蓮の草庵など寺伝の殆どが隣接する海上山佛光寺(伝・伊東の地頭館跡)と重複しているのが面白い。日蓮が去った後は祖師堂を置いて宗祖を祀ったが明治初期に焼失、昭和27年に再建した。日蓮が暮らした草庵の跡を宗門の聖地として寺にしたのが佛現寺、との経緯になる。
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日蓮は地頭の伊東八郎左衛門預かりとしてこの毘沙門堂に住み四恩抄・教機時国抄を著して「法華経の行者」を宣言、弘長三年(1263)2月に赦免され鎌倉に帰った。更に幕府への建白と他宗の批判を続けたため、文永八年(1271)に滝ノ口法難を経て今度は佐渡へ流罪、文永十一年(1274)春に赦免され甲斐の 身延山久遠寺(公式サイト)を経て弘安五年(1282)に武蔵国池上(現在の 本行寺・公式サイト)で死没した。
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  ※八郎左衛門朝高: 伊東家系図に朝高の名はない。工藤祐経 の嫡男 伊東祐時(幼名犬房丸)の六男で伊東庄の地頭を相続した祐光を差す。
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  ※海中出現釈迦立像: 日蓮の随身佛とされているが、「海から現れた」 は疑わしい。現在は京都の 本圀寺 (wiki) の寺宝となっている、らしい。


     

           左: 以前は本道の裏手で駐車場の入口だったが、堂々たる山門が完成して正面入口になってしまった。元の裏口だったから違和感がある。
本来の参道を歩きたければ西側の伊東警察署そばから狭い石段を50mほど登るのが必要(かなり遠回りだけど風情はある)
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           中: と言うことで、そのまま進むと本堂の裏手に入ってしまう。車が入れるのはこの山門だけだから便利だが、勝手口から入るみたいで嫌だね。
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           右: 本堂の全景。石畳の左手が元々の正面参道で、山門が完成する前は西の市街地から雰囲気のある石段を登って参詣する習慣だった。
更に昔、現在の本堂が完成する前は海側(本道の左裏手、下にある山門のルート)から登っていたらしいから、二転三転を重ねている。


     

           左: 日蓮草庵の跡と伝わる祖師堂の屋根越しに伊東市街地を見る。すぐ下には日蓮流罪当時に地頭を務めていた伊東祐光の館跡と伝わる佛光寺 (別窓)、
撮影場所の右側に江戸時代の参道だった石段が続いている。
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           中: 伊東湾の先に見えるのが 道の駅マリンタウン(別窓)のある岬、その先が宇佐美岬、その陰が網代岬、その先が伊豆山の岬、更に右に張り出した
真鶴崎と、先端の三つ石が微かに見える。
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           右: 境内の右端から伊東漁港の方向を。中央やや右の大きな屋根が共同湯のある久須美温泉会館、その延長線上に初島が見える。伊東漁港の中心部だ。


     

           左: 伊東漁港側から本堂の裏手に登る石段。この先に江戸末期建築の山門、途中に無縁仏の墓石や津波の慰霊碑などが点在している。
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           中&右: 徳川時代末期に建造された山門。現在でも扁額が架かっている仏現寺の正面玄関なのだが、現在は実質的な裏口になってしまった。
勝手口にまで山門があるのは全国でも珍しい。本堂の建立は昭和27年(1952)、従来は漁港の近くから登っていた参道は温泉客の多い
市街地側に付け替え、更に利用頻度が石段から駐車場側に移ったため、本堂の裏手に山門がある変則レイアウトになってしまった。


     

           左: 旧・山門横の五輪塔と石碑は元禄時代と関東大震災の津波で没した被災者慰霊のため建立されたもの。
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           中&右: 日蓮の草庵跡と伝わる毘沙門堂は伊豆法難700年記念の建造(昭和36年・1961年前後)、奥に見える祖師堂は昭和26年の建造。