「新田の泣き不動」を祀る妙満院大慶寺 

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新田三不動の一つ「泣き不動」を祀っている。牡丹園で知られ、花期(5月前後)には150種3000株が咲き、この時期の参拝は有料(300円)となる。
新田義重 の娘が剃髪し妙満尼を名乗って夫の 源義平 の首を新田に持ち帰って(現在の)清泉寺(別窓)に葬り、この綿打郷に移って庵に住んだのが起源とされ、その跡に
新田支族の綿打氏が館を建てた。明徳五年(1394)に足利の鶏足寺から空覚上人を招き大慶寺を開基した、と伝わる。現在は京都 醍醐寺(公式サイト)の末寺である。
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本堂西の不動堂には平安時代末期(むしろ鎌倉時代初期と言うべきか)の作で、鎌倉時代以降は「新田の守り不動」として崇敬を受けた不動明王像が祀られている。
これは「泣き不動」とも呼ばれ、正安三年(1301)に義貞の戦死が報じられたのを悲しんで涙を流した、と伝わっている。
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晩年の妙満尼が彫った父義重の木像が一晩で不動明王に変身したため御影不動と呼ばれているが、義重が楯の上で軍勢を指揮する姿を模したと伝わる明王院の「御影不動」
とは別物で、本尊の大日如来を祀る本堂裏には支族の綿打太郎為氏の墓が残り、土塁の跡などもかなり鮮明である。
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新田義重の嫡男が 義兼、その嫡男が義房、その嫡男が 政義、その次男が大館を名乗った家氏、その長男が為氏。為氏は綿打太郎を名乗り大慶寺のある綿打郷を領有して
して綿打氏の祖となった人物で、土佐国古城略史にも「新田綿打入道」として記録されている。
(綿打入道は新田の一族綿打刑部少輔、蓋是の人也)。南北朝時代には子孫が義貞に従って各地を転戦している。


     

              左: 両袖に金剛力士像を収めた朱塗りの山門が美しい。大慶寺は義兼−義房−政義−二男家氏(大館)を継いだ綿打為氏の館跡で、為氏は新田義貞が討死した
後も南朝の武将北畠顕家の下で転戦し西国で討ち死にしている。
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              中: 真っ直ぐに続く参道左に広い駐車場を備えている。創建は明徳五年(1394)、開山和尚は足利の鶏足寺(秀郷が築いた唐沢山城址(別窓)の
後半部分を参照)から招いた明源房空覚。
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              右: 参道の突き当りが不動堂で新田の守り不動で、新田義貞 の戦死を知って涙を流したと伝わる「泣き不動」を祀っている。


     

              左: 「泣き不動」は晩年の妙満尼(頼朝の異母兄 義平の寡婦)が父 義重の姿を模して彫った像が一夜にして不動明王に変ったと伝わる。
平治の乱に敗れた義平は平治二年(1159)1月に20歳で斬首されており、頼朝は寿永元年(1182)に妙満尼(俗名は祥寿姫)に艶書を送って
拒まれ父の義重にその旨を申し入れたが、義重は直ちに家臣の師六郎に嫁がせ(事実か偽装かは不明、師六郎の詳細も不明)。
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彼女が義平の5歳下と仮定すると38歳前後、頼朝の気紛れか、義重に対する牽制か、はたまた熟女好みか。
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              中: 妙満山蓮華院大慶寺の本堂。祥寿姫は夫の遺骨を尾島に葬って清泉寺とし、父の庇護を受け妙満尼を称して建てた庵が大慶寺の原点。
吾妻鏡の記述が事実なら還俗した彼女は師六郎の妻として義重の像を彫った事になるが、落飾したまま過ごした可能性も捨てきれない。
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              右: 本堂裏に残る綿打太郎為氏の墓。南朝の将軍北畠顕家に従って良く戦ったが、延元三年(1338)5月に和泉国堺浦石津(堺市)の合戦で
北朝の高師直が率いる軍勢に敗れて顕家と共に戦死したらしい。残った一族による慰霊の墓と推測される。

この頁は2022年 9月 3日に更新しました。