浅利与一義成の本領と坂額について 

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浅利義成 (義遠・与一) 新羅三郎義光の孫である 武田 (逸見) 清光 の11番目の子として久安五年 (1149) に誕生し、浅利郷 (中央市、旧豊富村) を
領有して浅利を名乗った。武田清光は父の 義清 と共に常陸から甲斐に移って逸見 (現在の甲斐大泉) に土着し、甲斐源氏の祖として勢力を広げた人物である。
一時期の本拠として、甲斐大泉の 谷戸 (逸見) 城址 の参照を。与一の兄には甲斐武田氏の祖となった 信義、勇猛で知られた悲劇の武将 安田義定 などがいる。
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治承四年(1180)に頼朝に呼応して甲斐で挙兵した長兄の信義に従い、緒戦の富士川合戦から文治元年 (1185) に壇ノ浦で平家一門が滅びるまで頼朝の
御家人として西国を転戦した。壇ノ浦では平家の仁井親清を遠矢で射殺し、弓の名手として名を馳せた。平家物語巻十一に拠れば、和田義盛が陸地から平家の
軍船に射た遠矢を強弓で知られた平家の仁井親清が射返し、それを与一が 射返して 那須与一佐奈田与一 と並んで「三与一」と称えられた。
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佐奈田与一は緒戦の石橋山で討死しただけで特に突出した足跡を残していないし、那須与一は詳細な素性さえ確認できないから、「三与一」の中では浅利に
関する記録が最も信頼できる。出自が明確だし後半生の記録もしっかり残っている。11番目の息子、「十指に余る」が与一・與一の語源である。
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頼朝 の死後は二代将軍の 頼家 に仕え、建仁元年(1201)52歳の時に越後城氏の乱に出兵し、負傷して捕えた敵の女武者 坂額 を頼家に願って妻とし、
承久三年 (1221) に73歳で没した。
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本領の浅利郷とは別に、戦功によって比内(地鶏で名高い現在の大館市比内町)の地頭職を得て任官し、一族は多くの御家人の子孫と同じように本領よりも
新領で繁栄している。子孫は信玄の家臣である甲斐浅利氏の右馬頭信種、出羽浅利氏らが著名である。
蛇足っぽいけど、マラソンの浅利純子(元)選手は秋田県鹿角の出身で比内とは目と鼻の距離、たぶん与一係累の血を引いているんだろうな。
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与一の墓所は菩提寺を称する飯室山大福寺(真言宗)と、浅利川沿いの浅利山法久寺(曹洞宗)の二ヶ所にある。館跡は大福寺付近とも法久寺付近とも言われ、
どちらも居館を置くための地形を備えているため特定は出来ていない。


     


     

           上6枚: 大福寺向い側にある与一の墓所。大小の五輪塔を従えた3m強の層塔が与一義成の墓と伝わっている。層塔の左右に並ぶ五輪塔群は家臣団を含む
一族の墓石と思われるが、サイズ順に並べてあるため本来の廟所とは考えられず、周辺に残っていた墓石を集めたのだろう。
すぐ横には立派な弓道場があり、公園・郷土資料館・立ち寄り温泉・広い駐車場などが シルクの里公園 として整備されている。
公園は無料(犬は禁止)、郷土資料館は月曜休・250円(確か温泉利用客は無料)、温泉は10〜21時・市外の客は500円。


     

           左: 菩提寺を称している二ヶ所の一つが墓所を管理する飯室山大福寺(真言宗)で、「大福寺殿一箭存誉大居士」の位牌を収蔵する。
開基は天平十一年(739)の 行基、武田信義の孫(与一の甥)飯室禅師光厳が中興の祖。与一はこの寺に帰依したと伝わる。本尊は不動明王、
後述する浅利山法久寺(曹洞宗)にも墓所と位牌があるから、同じ浅利地区で本家争いしてるんだろうな(笑)。
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           中: 境内入口の観音堂は大福寺ではなく地区の所有。甲斐三十三札所の十一番で、堂内には他に多聞天と不動明王を納めている。
地名から飯室観音とも呼ばれ、御詠歌は  〜 飯室や十にひとつの観世音 ふかき利生の叶ふなりけり 〜
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           右: 観音堂の本尊は聖観世音菩薩像で33年に一度開帳する秘仏である。甲斐武田一族が滅びた際の兵火を避けて避難させたが、戦後に再建した堂が
小さ過ぎたたため入れる事ができず、やむを得ず足を切って安置したと伝わる巨大な像だったらしい。
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内陣前に置かれた前立仏(平安時代末期の作)は高さ169cmの桧寄木造りで前立観音とも呼ばれる。他に同時代の多聞天立像(100cm)と
二体の不動明王立像(一体は100cmで平安末期の作、一体は98cmで鎌倉時代の作)を収蔵している。
本尊を除く仏像四体の集合画像は こちら、地図は こちら で。
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※前立仏:(まえだちぶつ)は本尊の代りに信仰対象として公開する像。例えば信濃善光寺の場合は本尊の阿弥陀三尊は絶対秘仏で完全非公開、
前立仏のみを7年(正確には6年)毎に開帳する。大福寺観音堂の場合、前立仏は格子の隙間から拝観できる。


     

           左: 参道左手に建つ鐘楼は美しい姿をしている。雨による腐食を防ぐ袴板は建立当初のオリジナルではなく後付けと思われる。
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           中&右: 石段の上に建つ薬師堂。鐘楼と同年代の建立だろうか、各所に補修の痕が見える。土蔵の様式は当初の物かは不明。


     

           中: 素性も知れず朽ちかけた仏像に両脇を守られて、観音堂の中央に薬師如来坐像が鎮座する。平安時代前期の作と推定されている。
彩色跡の残る高さ3mの寄木造りで右手は施無畏の印・左手に薬壷を持つ。通常は厨子に納められているが大きさでは群を抜いている。
破損の激しい両脇の仏像が時代の古さを物語っている。


     

           左: もう一ヶ所の与一菩提寺は浅利川沿いにある曹洞宗の浅利山法久寺(駐車場あり)、生前の与一が開いた宝弓寺が原型である。
道の駅「とよとみ」から800m程の距離、途中には後述の諏訪神社(こちらは駐車場なし)もあるから徒歩でのんびりと周遊しても良い。
北に笛吹川・西に浅利川が流れ背後は独立した小山(現在は広い墓地)、武将の居館に相応しい地の利を具えている。
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           中&右: 本堂に与一義成(吾妻鏡では義遠)の位牌を、右手の高みに墓石を保存している。法名は宝弓寺一箭存誉、「弓箭」の二文字はもちろん、
弓の名手として名を挙げた与一称えてのもの。地図は こちら で。


     

           左: 山門右手の坂を登ると歴代住職の墓所で、開基・与一の墓はその奥。途中には立派な宝篋印塔(素性は不明)が建っている。
本堂裏手にあるメイン駐車場に車を停めると廟所は反対側、勝手に「多分こっちだろう」と考えて一般の墓地を散々探し回ってしまった。
やはり参拝するときは山門から入らないと駄目、という事か。すぐ下に本堂と、遠くに浅利川に架かる戌申橋が見える。こっちが西だな。
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           中&右: 与一義成の墓石は覆屋で保護され、基台の部分は新しい石材で代用している。全体に風化が激しく、ひび割れを針金で固定して崩壊を
防いでいる。頭部と笠の組み合わせにもやや不自然な印象がある。


     

           左: 道の駅に近い国道140号から「シルクの里公園」に向うと600mほどの右側が浅利一族の守護神を祀る諏訪神社。駐車場はない。
西の七面堂方向に廻ると本殿裏手に入れるらしいが駐車f場の有無は判らない。短時間なら鳥居前に何とか停められるスペースがある。
参道右側の私道は行き止まり。祭神は他の諏訪神社と同じく建御名方神(大国主神の子)と妃の八坂刀売神。地図は こちら で。
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           中: 諏訪神社の創建年代は不明。社伝に拠れば、建久二年(1191)の頼朝による鶴岡八幡宮改築に倣って、南側の田見堂(小字)に鎮座していた
郷内の鎮守をここに遷して浅利義成が社殿を新築した、と伝えている。吾妻鏡の同年3月4日の条には確かに「深夜に小町大路付近で出火し、
八幡宮の神殿・回廊など全てが灰燼となった(11月21日に再建)
とあるから、背景は符合している。
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           右: 随身門は約240年前の寛保四年(1744年・八代将軍吉宗の頃)の建立だが構造部分の保存状態は悪くない。


     

           左&中: 随身門には弓を持ち箙(えびら・矢の容器)を背負った与一義成の像を納めている。左側が若い頃、右側は白髪となった老人の姿。
与一の生誕は久安五年(1149)だから源平合戦当時は36歳、承久三年(1221)に72歳で没している。
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           右: 本殿と拝殿は承応二年(1653年・四代将軍家綱の頃)で築後360年を過ぎている。例大祭は8月22日、神輿渡御も行われる。


     

           左: 浅利義成による寄進と伝わる船石は長さ130cmほどの自然石。参道の中ほど左側に置かれている。
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           中: 拝殿の左手前に置いてあるのは同じく義成寄進の桃石。凹んでいる部分を桃の種に見立てているのかな。
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           右: 拝殿の右手前に置いてあるのは同じく義成寄進の矢ノ根石。たぶん鏃(やじり)の部分を表しているのだろう。



 いずれが巴、坂額か...の坂額について 

越後城氏の系図は、高望王−平国香−二男繁盛−二男維茂−三男繁成−貞成−資国−資永(助職)−長茂(資永の弟)−資盛(資永の長男)と続く。貞成の頃に
越後に土着して勢力を広げ、北に領国を接する奥州藤原氏と互助関係を結んでいた。資永の代になって伊勢平氏の清盛が覇権を握ると北陸の防衛拠点として重用
されて越後守となり木曽義仲討伐を命じられたが、出陣する直前の治承五年 (1181) 2月に病死 (脳梗塞?) した。急遽資永の跡を継いだ弟の長茂は6月の
横田河原の合戦 (現在の長野市・川中島近く) で義仲の奇襲により大敗、降伏して頼朝に臣従した。坂額は資永と長茂の姉妹に当る。
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建仁元年(1201)正月、長茂は京で決起し建仁の乱を起こした。長茂が降伏した際に仲介を務め懇意にしていた梶原景時が前年の2月に謀反の嫌疑で追討を
受けており、景時排除を企てた一人で大番役のため在京していた小山朝政邸を襲った事から始まったから、計画的な蜂起ではなく遺恨に端を発した可能性もある。
乱は一ヶ月後の2月初旬に鎮圧され、長茂主従と景時残党および乱に協力した奥州藤原氏の残党も全て殺された。
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更に1月下旬には長茂の甥・資盛が城一族を率いて挙兵し鳥坂城 (胎内市・地図は こちら) に佐々木盛綱率いる追討軍を迎えて一ヶ月間の攻防を繰り返したが、
坂額が太股を射抜かれて負傷した後に捕虜となり、資盛は逃亡して行方不明になった。越後の名門・城氏の滅亡である。


     

           左: 信号の名は「坂額坂」だがMapFanにもGoogleにも表示されていない。住所は笛吹市境川町石橋2438、地図は こちら
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           中: 交差点左側の高台部分が「坂額塚」。与一館跡と伝わる地域からは約9km、下屋敷が境川付近だった可能性も考えられる。
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           左: 上向山地区に残る伝・板額の墓石。盾石(立て石?)の名があるが、地元でも殆ど忘れられた存在である。もちろん看板も道標も存在せず、
散々苦労した末に何とか辿りついた。地図はこちら、坂額の墓を裏付ける資料も刻銘もないため真偽は不明。如何にもそれらしい感じだけれどね。

城氏は桓武平氏の末で、越後に土着し平安時代末期まで栄えた一族。治承五年 (1181) に宗盛 の意を受けた当主 城資永 は一万の兵を集め 義仲 追討の出陣の
朝に急死、後継の弟 長茂 (助職) も義仲に追われて北に逃げ、平家衰退と共に勢力を失った。坂額は長茂の姉妹(妹か)に当る。
城氏を名乗った最初は繁成が秋田城介 (出羽国司) に任じた1030年前後であり、1080年頃から中伊豆の伝承に現れる大見郷の城氏が越後城氏傍流として
大見川中流域に土着した可能性も考えられる。
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【吾妻鏡 正治三年(1201)の記録】
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  2月03日・・・・平長茂(越後の城四郎)が鎌倉追討宣旨を求め兵を率いて上皇御所に乱入、留守で勅許を得られず小競り合いの後に逃亡。
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  3月04日・・・・京からの飛脚によれば、先月22日に城四郎長茂らは吉野の奥で出家した後に誅殺された。
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  4月02日・・・・越後からの飛脚によれば、城小太郎資盛が反逆を企てて挙兵した。討伐の兵が向ったが激しい抵抗のため鎮圧できなかった。
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  5月14日・・・・越後より書状が届き詳細が報告された。資盛らとの合戦で死傷者が多数、中でも資盛の叔母・坂額は女ながら弓の名手で味方の多くが
           射殺された。このため信濃国の住人藤澤次郎清親が後の山から坂額の股を射抜いて生け捕り、敵軍も敗北した。
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  6月28日・・・・藤澤次郎清親が負傷した坂額を連れ参上した。御家人が並ぶ中で頼家に拝謁したが気後れの気配もなく堂々たる態度を崩さなかった。
           容貌も、普通の美女が醜く見えるほどであった。
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  6月29日・・・・阿佐利與一が坂額の下賜を願い出た。坂額を妻として強い子を産ませ朝廷と武家の助けをさせたい、と。頼家は朝敵だったにも拘わらず
           これを許可し、阿佐利は坂額を連れて甲斐に帰った


坂額に関するその後の記録は見当たらないが、与一義成の嫡子・浅利太郎(知義?)に関する記述が吾妻鏡に載っている。坂額が産んだ与一の子とすれば23歳程
になっている可能性はあるが、先妻あるいは側妾の子と考える方が自然だろう。
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【吾妻鏡 嘉禄二年(1226)5月4日】  与一はこの5年前に死没している。
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夕刻に結城七郎朝廣と甲斐源氏の浅利太郎が参上した。先月の27日夕刻に通りかかった白河関袋辻で若宮禅師が公卿を偽って謀反を企てているのに遭遇し、
これを討ち取った。よって若宮禅師の首と拘束した部下を伴って参上した、と。首は金洗沢(七里ガ浜近く)に懸けられた。謀反を企てた一味は50数人、
首謀者は忍寂房と称する禅師で、賭博などを生業とする悪徒らである。
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与一義成は久安五年(1149)生れだから坂額を得た正治三年(1201)には52歳であり、坂額が後妻だったか側妾だったかは不明。
坂額は長茂(仁平二年・1152年生れ)の姉妹で、多分せいぜい20代半ば程度の未婚の妹だろうが、正確な年齢は判らない。嘉禄二年に与一義成が存命して
いれば77歳、浅利太郎(庶流かも)は父が奥州合戦の勲功で得た比内に赴任する途中で事件に遭遇した、という事だろう。
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他にも承久の乱(1221年)を描いた戦記物・承久記には東山道から京に行軍する武田信光傘下の軍勢に「あさりの太郎 (知義だろう) 」の名があり、もちろん
生母が誰かまでは書かれていない。坂額の子ならば物語が華やかなのに、載っていないのは違うという事か。また奥南落穂集 (東北南部領の中世伝承資料集) には
「知義は下向して鹿角に住み、三代後が浅利太郎義邦を名乗った」と伝えており、浅利氏の一部が鹿角地区に移住・土着した事を示している。
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坂額は夫と共に余生を甲斐で送ったと考えられるが、墓所は既に失われたらしい。
東八代郡誌 (大正時代) には 「坂額の産んだ娘が武田信光の六男・石橋八郎信継 (岩崎八郎) に嫁し小黒坂小字柳原に古墳・坂額塚を造った」とあり、また甲斐国志
(文化十一年・1814年に成立) の巻九十五には 「坂額の墓は上向山大宮新田の中にある」、更に甲斐名勝志 (天明三年・1783年成立)巻三には 「中畑村に
あった坂額御前墓は川辺だったため既に流失した」
と書かれている。上向山大宮新田は現在の甲府市上向山町大宮新田で中畑村は現在の甲府市中畑町、二ヶ所とも
与一義成の館跡と伝わる法弓寺の約5km東に隣接している。
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その他、妊娠した坂額が安産祈願のため新羅三郎義光開基の芹沢不動尊(地図)に参詣途中で腹帯を締め直すため腰掛けた「帯石」(この付近)とか、春日居にある
賀茂春日神社 (地図) 神官の奥山家には坂額の弓や薙刀・小刀が伝わっているとか、様々な話が残っている。いずれも「坂額」と「板額」を混用しているのが面白い。
この稿では吾妻鏡の記述に従って「坂額」を使用している。
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芹沢不動尊のそばには名水で知られた 藤垈 (ふじぬた) の滝(wiki)があり、駐車場やトイレなども整備されている。