将門像か、頼朝像か  丹那の駒形堂 

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石像の後に掲示された板の縁起(読みやすい表現に変更してある)
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駒形堂は900年前の承平二年 (932) 新皇 将門 が関東に下る時に絃巻山で乗馬が病になったため観音に祈願し、ただちに霊感があって平癒した。
その恩に報いるため 空海(弘法大師) が刻んだ守本尊を安置した。これが泉龍禅寺に伝わる本尊である。
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建久四年 (1180) に至り 源頼朝 公が富士裾野で巻狩りを催してその観音堂に参拝すると、愛馬の摺墨(するすみ)がしきりに嘶いた。すると遠く
離れた場所から馬の嘶く声が返ってきたのでその山を捜し、大成池の畔で七尺を越える馬を捕えて池好(いけづき)と名付けた。
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この名馬を得られたので絃巻山中腹に駒形堂を建立し、将門が納めた馬頭観音を本尊とした。これが駒形堂の由来である。そして秩父守 畠山重忠
鏃(やじり)を使って傍らの大石に頼朝騎馬の勇姿を刻んで駒形権現とし、更に弓の弦を巻いて天下泰平を祈った。
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弘化四年 (1848) に大きく破損したため、名主五右衛門らの発案によって修復した。明治維新の頃に損壊し、大正六年 (1917) 3月この霊地を
保存するため区民が協力して堂を建立した。
                           大正六年三月吉祥日誌之  伊豆国田方郡函南村軽井沢  駒形堂

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※新皇将門: 縁起には「親王」とあるが将門に皇族の血統はなく、「新皇」に訂正している。将門は天慶二年 (939) 11月に本格的な反乱に突入、12月には
関東一円を掌握して「新皇」を名乗って即位した。ただし、932年前後に京を離れて東国へ戻る途中の渋谷川 (渋谷区) で叔父の平国香と所領を
巡る合戦を起こし、滅亡する前になって「新皇」を名乗っている。駒形堂の縁起は坂東下向の史実に合せて年代を設定したのだろう。
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※秩父守: 重忠は 河越重頼 が粛清された後に武蔵留守所惣検校職を継承したが「守」の官位は受けておらず、秩父郡も武蔵国の一部なので国守は存在しない。
古名を知知夫、郡衙は秩父神社近くの中村郷 (現在の中村町)と推定されるが確認できていない。 平家全盛期の武蔵守は 平知章 (知盛 の長男)、平家
滅亡後の寿永三年(1184)は一條忠頼、以後建久六年(1195)までは平賀 (大内) 義信、 その後は 足利義兼大内 (平賀) 惟義平賀朝雅
大江 (源) 親廣足利義氏北條時房北條泰時 が就任している。
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※七尺の馬: このまま受け取ると背高212cmの巨大馬になる。ラオウの黒王号(笑)じゃあるまいし、生物学上あり得ないから多分「七寸」の間違いだろう。
背高四尺(約121cm)以上の馬を龍蹄と呼び、四尺を越えると一寸・二寸と呼ぶので七寸は約142cmとなる。
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鎌倉時代にも五尺(152cm)を超える大型馬が (稀に) いたらしいが一般的なサイズは四尺だった。現代の乗馬クラブの馬は150〜160cm、
147cm以下はポニー種の範囲となる。ポニーに跨る甲冑武者なんて想像したくないけど、事実は小説より奇なり。
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※池好: 数多い伝承を残す頼朝の愛馬で麿墨のライバル、映画「戦火の馬」を思い出す。頼朝に下賜された磨墨には 佐々木高綱 が跨り、木曽義仲との宇治川合戦で
麿墨に跨る 梶原景季 と一番乗りを競った。函南にも池好(池月)伝説があり、詳細は本編に記載してある。


     

           左: 軽井沢の旧街道に沿った泉龍寺境内の丘に新しく造られた駒形堂。かなり急な傾斜を登り、楠の木に沿って更に石段を登る。
           中: 本来の観音堂(祠)は街道に沿った山の中腹(古い峠道か?)にあったらしいが既に失われ、今では痕跡さえ残っていないとされる。
           右: 巾76×高さ91cmの板石に烏帽子姿の騎馬像が浮き彫りにされている。制作年代も由来も確証がなく、地元の伝承が残っているのみ。

この頁は2022年 7月10日に更新しました。