ここには鎌倉幕府の九代執権
貞時 の側室であり、14代執権
高時 を産んで夫の死後に剃髪した覚海圓成が寄進した鐘が保存されている。
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この梵鐘、当初は八代執権として元寇を戦った
北條時宗 の正室・覚山志道
※が開いた鎌倉山ノ内の通称・縁切寺、正式には
松岡山東慶総持禅寺(公式サイト)にあったもの。
覚山志道の娘である覚海圓成が幕府の滅亡後に守山北端の旧北條邸の所有を許され、圓成寺(えんじょうじ)として移り住んだ際に移設したもの。圓成寺は江戸時代に焼失して廃寺となり、梵鐘は近隣では随一の大寺だった本立寺に移されたと考えられている。
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※覚山志道: 父は安達氏当主
義景、母は
北條時房 の娘。弘安八年 (1285) の霜月騒動で多数の安達一族が殺された際は一族の子供らを庇護し、首謀者の
内管領
※ 平頼綱 が
失脚した後の安達氏復権に大きく貢献している。
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※内管領: 北条得宗家の執事、得宗
※被官の筆頭。鎌倉時代後期の幕政で強力な権力を持った。
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※得宗: 北條氏の惣領 (嫡流) を差す。語源は
義時 の法名、追号の諸説あり。初代を時政、義時とその嫡流 泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時 の九代を意味する。
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鐘には元徳四年(1332年)の銘が鋳込まれている。この「四」の部分は「二二」なので意味不明だったが、鎌倉幕府と光厳天皇は
後醍醐天皇が改元した「元弘」の年号を認めず、後醍醐天皇が隠岐に流された1332年5月まで元徳を使い続けた。たぶん南北朝時代の争乱の中で誰かが「四」を部分的に削って「二二」の形にしたと思われる。いずれにしても東慶寺の梵鐘として鎌倉陥落の一年前に鋳造されたのは間違いない、漢文は昔から鬼門だった私でも理解できる。
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東慶寺の詳しい歴史は不明だが、幕府滅亡の戦火で失われたらしい。その後に再建された際にはは材木座の
補陀洛(落)寺(外部サイト) の地中から掘り出した梵鐘を利用した。補陀洛寺も本堂と庫裏の他は何度も焼失しており、再建の目処が立たない時期に東慶寺に移設したのだろう。南向山帰命院補陀落寺(真言宗大覚寺派)は鎌倉入りの翌・養和元年(1181)に
頼朝 が祈願所として開基した古刹で、開山上人は文覚が務めている。