中村荘から吾妻山を隔てた南東の二宮郷を継承したのが
中村宗平 四男の四郎友平で、この所領は嫡男の二宮朝忠(友忠とも)へと継承した。
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宗平の長女は大住郡(現在の平塚市岡崎)の
岡崎義實(
三浦義明 の弟)に嫁して
佐奈田与一義忠を産み、次女は
伊東祐親に嫁して
河津三郎祐泰(曽我兄弟の父)を産んだ。
二宮友平の館跡と伝わる知足寺に
曽我兄弟 の供養墓がある理由は...
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河津三郎祐泰の室 (つまり曽我兄弟の生母) の
満江御前 は
狩野介茂光 の四男
狩野親光の三女。最初の夫は伊豆目代の源仲成 (
源頼政 の嫡男
仲綱 の乳母子) で、仲成との間に
一男一女を産んだ後に離縁し (経緯は「人名辞典」満劫の項を参照 ) 河津三郎祐泰に再嫁した。最初の夫との間に産まれた娘が成長して二宮朝忠に嫁し、朝忠の没後に吾妻山東麓
の館を寺に改め花月院とした。彼女は剃髪して花月尼を名乗り、夫の朝忠と自分の異父弟である曽我兄弟の菩提を弔って館を知足寺に改めた、それが縁起である。
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二宮郷から当時の鎌倉街道(山道)を西へ進むと3kmほどで六本松峠、ここから更に西に下ると曽我兄弟が育った曽我郷に至る。同じ母から産まれた姉と弟が至近に住みながら
異なった道を辿り、若くして没した兄弟を姉が弔った...これもまた運命だろうか。
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花月院知足寺は浄土宗の総本山
知恩院(公式サイト)の末寺で、鎌倉時代末期には衰退したが、室町時代の亨録年間(1528〜1531)に然誉恵公(人物の詳細は不明)が
復興して現在に至っている。
左:中村氏と伊東氏と曽我氏の相関系図 画像をクリック→拡大表示
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大庭景親 の祖である
鎌倉景政 が開発し、長治元年(1104)に伊勢神宮に寄進して立荘した相模国最大規模の
荘園・大庭御厨の支配権を巡る争いが東国の武士たちを源平合戦に巻き込んだ、とも言える。
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天養元年(1144)、
源義朝は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と三浦義継(
義明 の父)と
中村宗平 ら千余騎を率いて大庭御厨に侵入し、暴行略奪して強引に支配権を確立した。義朝の武力で泣き寝入りした大庭一族を中心とする鎌倉氏系と、義朝に従って実利を得た三浦・中村党グループが反目する構図がこの時に出来上がり、石橋山ではその構図のまま再び戦うことになった。
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保元の乱以降の大庭氏を統率した
大庭景親 と弟の
俣野景久 は
平清盛 の郎党となり、平治の乱で源氏が衰退した以後は平家の権威を利用して三浦・中村党グループを圧迫した。大庭一族にとっての石橋山合戦は大庭御厨の支配権を確実にして義朝に受けた屈辱に報復する場であり、三浦党・中村党にとっては大庭の勢力に反撃する機会でもある。伊豆国を出発する頼朝軍の中にも相模の武士が名を連ねている。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月20日】.
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頼朝挙兵の頃の中村宗平は相当な高齢だったと推測される。三男の土屋宗遠が大治三年(1128)前後生れの52才だから間違いなく70歳を越えている。長男重平は前述通り
病弱で早世したため息子の景平と盛平が頼朝勢に従軍、宗平の二男 土肥實平親子と三男の土屋宗遠親子ら中村党も、伊豆を出発する時から頼朝勢に名を連ねている。
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四男・二宮友平の名が見えないのが面白いところで...二宮郷から山を一つ隔てた西の森戸川流域を領有していた
曽我祐信 との関係が浮かび上がってくる。
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中村宗平の娘の一人は
伊東祐親 の室であり、別の一人は曽我祐信の前妻(死去)である。祐信が後妻に迎えた
満劫(満江)は伊東祐親の嫡男
河津三郎 の妻として産んだ2人の男子
(後の曽我兄弟)を連れて曽我祐信の継室となった。更に頼朝が挙兵する4年前の安元二年(1176)には満劫の産んだ娘 (後の知足尼、父は源仲成) が友平の嫡男 朝忠に嫁して
いる。中村と曽我と伊東、網の目のような血縁関係の中で 伊東も曽我も平家側に従軍している以上、二宮友平は源平どちらにも加わリ難い辛い立場だった。
ただし大庭景親の敗北後には曽我祐信も頼朝に帰服し、二宮友平も中村一族と共に鎌倉御家人として仕えているから、一応は目出度し目出度し。