時政−
義時−
泰時と続いた鎌倉幕府執権を継ぐ筈だった泰時の嫡子
時氏 が父に先立つ27歳で死没したため、泰時没後には時氏の嫡男
経時 が四代執権となった。更に経時が23歳で死没、経時の息子も幼少のため、五代執権を継いだのが経時の弟で聡明で知られた
時頼 である。
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時頼は前将軍の
藤原頼経 を追放してアンチ北條の動きを鎮圧し、更に宝治元年(1247)には有力御家人の中で最後に残った敵対勢力
三浦泰村 一族を滅ぼして独裁体制を確立させた。強硬な手法による評価が高く、病を得て執権職を義兄の
北條長時
に譲った後も幕政への関与を続けた。そこから諸国の世情を調べた「鉢の木」などの「廻国伝説」が生まれ、伊豆長岡の最明寺創建に関する伝承も派生した、らしい。
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周辺地図)。
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時頼には甲冑を着け生死を賭けるような実戦経験は無いのだが、寺伝は時頼は一寸八分(約55ミリ)に鋳造した黄金の八幡大菩薩像を兜の内側に入れ転戦した、と。
そして諸国巡礼を終えた晩年の弘長三年(1263)9月、一族の祖
北條時政 が生まれた韮山に近い万法院山(現在の源氏山)東麓に八幡大菩薩の社殿を建立して黄金の像を納め、11月22日に死去したと伝わる。
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領民は深く追慕し、鎌倉の
福源山明月院(参考サイト)に葬られた時頼の分骨を願って許され、八幡大菩薩社殿の裏山に埋葬した。八幡大菩薩社の本尊は黄金の像、最明寺本尊は
十界曼荼羅(参考サイト)である。
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時頼は
鎌倉建長寺(公式サイト) 開基の渡来僧
蘭渓道隆※(大覚禅師)の教えを受けて臨済宗に帰依した。八幡大菩薩の社殿は時頼の法名(最明寺道崇)を用いて如意山最明寺、天正十八年(1590)に秀吉小田原攻めの兵火で堂塔と宝物全てを焼失したが八幡大菩薩像は救い出された。
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慶長九年(1605)に至って
身延山久遠寺(公式サイト)二十一世の日遠上人の教化を受けた住職の日瑞が日蓮宗に改め東光山最明寺として堂塔を再建、昭和二十三年には類焼したが昭和四十一年に再建し、現在は同じ伊豆の国市にある日蓮宗蓮長寺(願成就院の北、成福寺の近く)の末寺となっている。
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※蘭渓道隆: 建保元年(1213)〜 弘安元年(1278)。寛元四年(1246)に弟子と共に南宋から渡来した臨済宗の高僧で執権時頼の深い帰依を受けた。
鎌倉建長寺を開いた後に元寇の役が発生、蒙古の密偵と疑われたため伊豆に逃れ、修禅寺を真言宗から臨済宗に改めた(後に北条早雲が曹洞宗に改宗)。
その後は
京都建仁寺(公式サイト)や鎌倉の
壽福寺(別窓)や鎌倉禅興寺(明治初期に廃寺)を住持し、讒訴を受け甲斐国に流された際には
新羅三郎義光 が創建した甲府
東光寺 (wiki) を再興、建長寺に戻って没している。