北條時頼の分骨を納めた 東光山最明寺 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ      「索引」 へ  「旅と犬と史跡巡りと」のトップページへ

.
北條時頼像 右:北條時頼像 享保十七年(1732)銘 鎌倉建長寺収蔵    画像をクリック→拡大表示
.
時政義時泰時と続いた鎌倉幕府執権を継ぐ筈だった泰時の嫡子 時氏 が父に先立つ27歳で死没したため、泰時没後には時氏の嫡男 経時 が四代執権となった。更に経時が23歳で死没、経時の息子も幼少のため、五代執権を継いだのが経時の弟で聡明で知られた 時頼 である。
.
時頼は前将軍の 藤原頼経 を追放してアンチ北條の動きを鎮圧し、更に宝治元年(1247)には有力御家人の中で最後に残った敵対勢力 三浦泰村 一族を滅ぼして独裁体制を確立させた。強硬な手法による評価が高く、病を得て執権職を義兄の 北條長時 に譲った後も幕政への関与を続けた。そこから諸国の世情を調べた「鉢の木」などの「廻国伝説」が生まれ、伊豆長岡の最明寺創建に関する伝承も派生した、らしい。
短時間なら山門の前または敷地向かい側のコンビニに駐車できる(周辺地図)。
.
時頼には甲冑を着け生死を賭けるような実戦経験は無いのだが、寺伝は時頼は一寸八分(約55ミリ)に鋳造した黄金の八幡大菩薩像を兜の内側に入れ転戦した、と。
そして諸国巡礼を終えた晩年の弘長三年(1263)9月、一族の祖 北條時政 が生まれた韮山に近い万法院山(現在の源氏山)東麓に八幡大菩薩の社殿を建立して黄金の像を納め、11月22日に死去したと伝わる。
.
領民は深く追慕し、鎌倉の 福源山明月院(参考サイト)に葬られた時頼の分骨を願って許され、八幡大菩薩社殿の裏山に埋葬した。八幡大菩薩社の本尊は黄金の像、最明寺本尊は 十界曼荼羅(参考サイト)である。
.
時頼は 鎌倉建長寺(公式サイト) 開基の渡来僧 蘭渓道隆(大覚禅師)の教えを受けて臨済宗に帰依した。八幡大菩薩の社殿は時頼の法名(最明寺道崇)を用いて如意山最明寺、天正十八年(1590)に秀吉小田原攻めの兵火で堂塔と宝物全てを焼失したが八幡大菩薩像は救い出された。
.
慶長九年(1605)に至って 身延山久遠寺(公式サイト)二十一世の日遠上人の教化を受けた住職の日瑞が日蓮宗に改め東光山最明寺として堂塔を再建、昭和二十三年には類焼したが昭和四十一年に再建し、現在は同じ伊豆の国市にある日蓮宗蓮長寺(願成就院の北、成福寺の近く)の末寺となっている。
.
  ※蘭渓道隆: 建保元年(1213)〜 弘安元年(1278)。寛元四年(1246)に弟子と共に南宋から渡来した臨済宗の高僧で執権時頼の深い帰依を受けた。
鎌倉建長寺を開いた後に元寇の役が発生、蒙古の密偵と疑われたため伊豆に逃れ、修禅寺を真言宗から臨済宗に改めた(後に北条早雲が曹洞宗に改宗)。
その後は 京都建仁寺(公式サイト)や鎌倉の 壽福寺(別窓)や鎌倉禅興寺(明治初期に廃寺)を住持し、讒訴を受け甲斐国に流された際には 新羅三郎義光 が創建した甲府 東光寺 (wiki) を再興、建長寺に戻って没している。


     

           左: 源氏山の南麓、古奈温泉側の古刹で、すぐ前が順天堂大学病院。山門前の駐車場か、短時間なら筋向いのコンビニも利用できる。
のんびり歩く予定なら公共施設 アクシスかつらぎ(公式サイト)の無料Pかマックスバリュの駐車場を利用すると良い。
.
           中: 参道横のなまこ塀は和風旅館 「はなぶさ(公式サイト)が経営する黒糖温泉饅頭の「ひと花」。伊豆長岡の温泉饅頭屋は多いが、約200m先の
右手にある黒柳(公式サイト)が人気。大通りに面しているし、いつも蒸篭から湯気が上っているし専用の駐車場もある。食べたことはないけど。
.
           右: 山門手前の右手に八幡大菩薩社殿、駐車場を左に迂回すると源氏山に登る雰囲気の良い細道(傾斜がそれなりに厳しい)が通じている。


     

           左: 八幡大菩薩(八幡神)と共存しているのは典型的な神仏習合寺院、という事。清和源氏を初めとする武士が揃って信仰する武運の神で、
誉田別命=十五代応神天皇(在位201〜310年、ちょうど卑弥呼の頃だ!)と同一視される。一説に、宇佐八幡の神官が東大寺大仏建造に
自発的協力を申し出た、これが日本の「神」が仏教寺院の守護神に「堕落」した最初、と考えられている、とか。
.
           中: 本堂左側を通って源氏山麓の墓地入口の門を潜ると伊豆長岡で生まれた俳人・萩原麦草(明治27年〜昭和40年)の句碑がある。
最明寺 時頼よりの 時雨ふる  浅学の悲しさ、残念ながら意味が判らない。
.
           右: 一般の墓所に向うスロープとは別に、時頼の廟所に登る専用の石段が設けてある。当時の裏山、廟所も石段も後世に造ったもの、だろう。


     

           左: 時頼の墓石は五輪塔と宝篋印塔を組み合わせたような形状をしている。分骨を葬ったと伝わるが、その信頼性と時代の整合性は不明。
.
           中&左: 最明寺の起源となった八幡菩薩堂。郷民が時頼の遺徳を慕って幕府から許可された分骨を裏山に葬り、時頼が兜に入れていた
八幡大菩薩像を祀って廟所の守護神とし、併せて当地の鎮守にした、と。

この頁は2022年 7月18日に更新しました。