脇屋義助の遺髪を葬ったと伝わる正法寺 

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義助の遺髪を葬ったとされる石碑が残り、山門には近隣には珍しい見事な二王像が残されている。寺伝に拠れば 経基王(源経基)が開基となり、京都 醍醐寺
開いた聖宝和尚を開山に迎えて延喜年間(901〜922)に創建された。
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元暦年間(1184〜1105)に 新田義重が修復し、元弘年間(1331〜1334)には脇屋義助が、所領の由良郷の脇屋村 (地図) と大般若経600巻を
寺領に寄進している。旧くは萬明山聖徳院聖宝寺と称したが、義助の死後は法名の「正法寺殿傑山宗栄大居士」にちなみ正法寺とされた。本尊は鎌倉時代初期に
刻まれた聖観音で12年に一度の開帳である。
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義助の死を看取って遺髪を新田に持ち帰り、この寺に葬ったのは太平記で名高い児島高徳と伝えており、その後も義助の子・義治を助けて戦ったが南朝に利あらず、
建徳二年(1371)に新田荘に近い佐貫荘(大泉町)の古海太郎広房を頼り定住している。
その後は剃髪して備後三郎入道志純義晴を名乗り、弘和二年(1382)に高徳寺(群馬県大泉町古海2209)で72歳で没したと伝わる。高徳寺の約200m
南の利根川近くに墓が残されているが、彼の存在そのものを含めて全国に多くの異説があり、定かではない。


     

              左: 正法寺の本堂遠景。元は南東1kmの 脇屋義助館跡 に接した観音免にあり、現地からは板碑・五輪塔・層塔などが出土している。移転の時期や
理由などは明らかになっていない。
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              中: 仁王門の建立は貞享二年(1685)、享和三年(1803)に改築している。安定感のある二層楼門で間口約9m×奥行5.4m、高さ12m。
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              右: 造りは豪壮、破風などの細かい仕上げも良く行き届いている。扁額には脇屋山の文字、南朝に尽した武将の姿を髣髴とさせる。


     

              左: 仁王門の両袖に配された金剛力士は貞享二年の仁王門建立と共に京都の大仏師・左京入道勅法眼康祐の木造彩色、高さ260cmの像。
阿像・吽像共に力強い作風で金網越しが悔まれる。胎内の銘板から造像は貞享2年(1685)の作と確認された。康祐は定朝から26代目の直系弟子、
定朝は院派・慶派・円派の祖、平安末期の大仏師である。
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              中&右: 山門の正面、鎌倉時代初期の作とされる本尊の聖観音立像を祀る観音堂が落ち着いた佇まいを見せる。


     

              左: 聖観音像は155cmの檜寄木造り、頭部に宝冠座を載せた鎌倉時代初期の作と推定される。12年に一度開帳される秘仏である。
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              左&中: 脇屋義助の遺髪を納めた遺髪塚と覆屋。南朝の忠臣・児島高徳が持ち帰ったと伝わるが経緯は不明、歴史のロマンと思うべきか。
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              右: 脇屋義助館跡に隣接する観音免(正法寺旧跡)から出土した二層の塔。現状は高さ97cm・巾43cmだが元は五または七層らしい。
造立は鎌倉時代の末期か。観音免からは他にも正安二年(1300)銘の板碑や骨蔵器、宋銭などが出土している。

この頁は2022年 9月 4日に更新しました。