茅ヶ崎 鶴嶺八幡宮 

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本文に述べた内容と重複するが、「平忠常の乱(長元三年・1030年)を鎮めるため派遣された 源頼義 が下総に向う途中で石清水を勧請した」とする社伝は、史実ではない。
ましてや wikipedia にある「鎮守府将軍 源頼義が平忠常の乱を平定した折、京都にある石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建した」云々の記述は明らかに事実誤認である。
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為義が鎮守府将軍に任じたのは23年後の天喜元年(1053)、前九年の役が勃発して安倍一族討伐に向かった42歳の頃で、平忠常の乱に於ける鎮守府将軍は父の 頼信、その着任は治安三年(1023)である。  年代の誤認を指摘すると共に、 鶴嶺八幡宮の周辺には相模川橋脚史跡御霊神社など、見るべきスポットも多い事を紹介しておく。
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右:鶴嶺八幡宮周辺の史跡と駐車場 鳥瞰       画像をクリック→拡大表示へ
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平忠常 の乱平定には確かに 源頼義 も派遣されているが、甲斐守だった父の 源頼信 が甲斐を発って下総に入る前に忠常は降伏したため、実際の戦闘は行われていない。もちろん父の援軍として下総に向かった頼義が途中の懐島郷に立ち寄った可能性はあるけれども、少なくとも立場は鎮守府将軍として、ではない。
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平忠常の乱について更に拘泥すると...最初に鎮圧を命じられたのは桓武平氏の始祖 高望王から五代後の 平直方。持久戦で忠常軍を疲弊させたのだが、朝廷は能力なしと判断して頼信に交代させた経緯がある。
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頼信の旗下に入った直方は頼義の武勇を認めて娘を妻として与え、更に鎌倉大倉の館を贈った。ここが後に 為義義朝 と続く河内源氏の東国に於ける拠点となった鎌倉の、現在は寿福金剛禅寺のある地である。
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誰が勧請したかは兎も角として、最初の懐島八幡宮の創建は長元三年(1030)で、康平六年(1063)には鶴嶺八幡宮に改称している。平安時代末期には保元の乱(1160年)による源氏の衰退もあって威勢を失ったが、覇権を握った 頼朝 が治承年間(1182年前後)に懐島郷の一部を寄進して勢いを取り戻した。
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建久二年(1191)には古参の頼朝御家人で懐島領主の 大庭 (懐島) 景義 (挙兵した頼朝と戦った大庭景親=景義の異母弟) が再興し、金堂や三重塔(当時は神仏習合)を建てて整備し大いに繁栄したらしい。東海道から真っ直ぐに続く長い参道も往時の面影を今に伝えている。
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しかし大庭一族の繁栄も長くは続かず、建暦三年(1213)の和田合戦で景義嫡男の景兼が 和田義盛に与力し北條氏と戦って討ち死に、所領の懐島郷は幕府の実務官僚で合戦の軍奉行を務めた(らしい) 二階堂行村の所有に変わった。同年5月6日の吾妻鏡には和田側の戦死者名簿に景兼の名が記録されている。
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鎌倉の人々  梶原刑部 (景時 の弟で当主の 朝景) 、同太郎、同小次郎・宇佐美平太左衛門、大庭小次郎 (景義の嫡男景兼) 、土肥小太郎 (惟平の嫡子仲平)、豊田平太、四宮三郎、同太郎・愛甲小太郎、同三郎、同五郎・金子の太郎  以上13人 .
※豊田平太: 大庭景義 の同母弟で父 大庭景宗の所領だった豊田郷 (大庭塚と豊田郷、大庭御厨の範囲 を参照) を継承した武士なのだが承久の乱を記録した吾妻鏡の承久三年6月18日の条に敵兵を討ち取った武士として 「豊田平太、同五郎」 の名が載っている。そのまま理解すれば和田合戦の罪を許され、承久の乱では鎌倉方として軍功を挙げたことになる。
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鶴峰八幡宮裏手にある 龍前院(公式サイト)には頼朝落馬の責めを負って自刃した護衛の武士10人の墓と伝わる五輪塔があったっけ。その後の調査で創建年代が鎌倉時代初期と一致せず、頼朝とは無関係なのが判明している。ここを訪問した暑い日、犬の飲む水を貰うため境内の蛇口を勝手に開いて坊主に怒られたっけ。
まぁ声を掛けなかった私も反省すべきだけど、何も大声で怒鳴るほどの問題じゃないだろ。曹洞宗のクソ坊主め、喝! 龍前院なんて大嫌いだ。


     

           左: 東海道(国道一号)に面した一の鳥居。ここ鳥居戸橋交差点から本殿まで約900mの参道が真っ直ぐに延びる。昔日の「八丁松並木」だ。
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           中: 一の鳥居から700mの信号で参道は車両通行止めになる。左に迂回すると参拝用駐車場もあるが道が狭いので信号の右側にある
富士スーパーの駐車場を利用する方が良い。夕刻の時間帯を避ければ混雑しないしスペースにも余裕がある。
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           右: 石の太鼓橋(歩行は不可)の横を抜けて二の鳥居へ。ここから200mは両側に松並木と石灯籠が並んでいる。昔は東海道から社頭まで
「八丁松並木」(一丁は109m、計872m)と呼ぶ参道が続いていた。松並木を整えたのは神仏習合時代に八幡宮別当寺の常光院住職だった
朝恵上人で、慶安二年(1649)に徳川三代将軍家光から七石の寺領を下賜された記念に社殿再建と共に整備したもの。


     

           左: 参道の左右に見える広い源平池(今では残骸)と庭園が隆盛の時代を偲ばせる。40年ほど前は小出川から引いた用水が満ちていた。水さえあれば
現在も風情のある光景になりそうだが保守の手間や危険防止の意味合いがあるのだろう、と思う。
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           中: 境内の手前には朝恵上人の功績を称える碑と、左の女護ヶ石は女性の守護神として信仰される。体の悪い部分や願い事のある部分を撫でて
「祓い給え、清め給え」と三回心に念じ、石を撫でて繰り返す。霊験あらたか、だそうな。
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           右: 玉垣の手前を東西に横切る舗装道路が馬場道(流鏑馬(やぶさめ)道)とも呼ばれる昔日の横参道。社殿前はやや広いが東西ともに100mほど先で
巾が狭く変わる。すぐ左側は鶴嶺小学校、周辺には人家が密集している。


     

           左: 社地の西側(左)にあった別当寺の常光院は明治元年(1868)の神仏分離令で廃寺となり、別当寺の供僧は還俗して神職となった。
十二を数えた僧坊も全て廃され各地に移ったと伝わっている。
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           中: 本殿右手の大銀杏は目通り(目の高さの周囲)9m×樹高29m、樹齢950年。勢いの良い数本の側枝が成長して幹を形成している。
社伝に拠れば平忠常の乱を鎮圧に向う源頼義が風光明媚な丘に石清水八幡を勧請、前九年の役で父頼義の応援に陸奥に向う義家が戦勝を
祈願して現在地に遷したと伝わる。その時に義家が手植えしたのがこの銀杏である、と。
ただし、最近では中国から銀杏が伝わったのは「鎌倉時代末期から室町時代」との説が最有力らしい。既に倒れて寿命を終えた鎌倉八幡宮の
大銀杏の樹齢もせいぜい600〜700年、千年には程遠い、とか。学説などの資料を調べるのも面白そうだ。
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           右: 鶴嶺八幡宮は茅ヶ崎の総鎮守、應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神(地の神か)を祭神とし、毎年9月15日を例祭とする。
他に、7月の第三月曜日(海の日)には伝統の 浜降祭 (wiki) が催される。


     

           左&中: 拝殿と本殿は特に旧くは見えないので朝恵上人が再興した1640年代の建築ではない、と思う。天保年間(1831〜1845)に
現在の南側に移設され昭和二年(1927)に再び現在地に戻されているから、そのどちらかだろう。
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           右: 社殿裏手の御神木は樹齢900余年の槙(マキ)。康平年間(1058〜1065)に頼義が前九年の役戦勝祈願のため手植えしたものと伝わる。

この頁は2022年 8月 2日に更新しました。