韮山挙兵当時から
頼朝 に従って転戦した大見一族の系譜は複雑に錯綜している。本来は大見姓にも拘わらず吾妻鏡では途中から宇佐美となり、更に加えて名まで
変っているため正確さは期し難く...多少の独断をもって推定せざるを得ない。
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平将門 を討伐した
平貞盛 は一族から多くの養子を迎えた事でも知られている。貞盛の弟・繁盛の子(或いは孫)の維繁も貞盛の養子になっており、維繁の3代後の
永基が越後に土着して越後城氏の祖となり 城資国−
資永 に継承された。資国の弟・康篤(詳細は不明)の子か孫が伊豆の大見に土着して城(あるいは大見)家政を
名乗り、その嫡子が城政光(大見政光、後に宇佐美平太政光)として大見の地頭となり、次子の
宇佐美実正(大見実政) は奥州合戦の功績により津軽の総地頭に
なって赴任、建久五年(1194)2月に勃発した大河兼任の乱で討死している。(
大見・城地区(別窓)の項も参照)
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家政は大見古城址西麓の通称大見畑と呼ばれる付近に館を構えた。ここには「城の井戸」の遺構や「垣宇土(屋敷の囲いの意)」の地名が残っており、現在では
實成寺境内に移設された家政の墓(大見塚・だいけんづか)が元々あった一帯である(
大見古城址の項を参照)。そして家政の嫡子・政光は城地区に移って城砦を
構え(白山神社付近)、實政は古城址南(現在の實成寺一帯・柳瀬地区)に移って南の山(
大見城址)を詰めの城とした、と考えられる。