鎌倉七口
※の一つが現在の化粧坂(けわいざか)。この場所について最初に書いた吾妻鏡は「気和飛坂」と表示している。これが化粧坂に転訛したのだろう。吾妻鏡が既に逸失した時代の
太平記は「化粧坂が」、梅松論は「北側の葛原が」戦場になった、と書いている。鎌倉から武蔵国東部に向う道として古くから利用されたルートの一つだった。
.
気和飛坂は「けわひ」または「けわい」の音の当て字とされる。語源について列記すると、@平家武者の首実検のため化粧を施した A遊郭があり化粧した女がいた B商店で「にぎわい」が
見られた C身嗜みを整える意味の古語「けわい」が起源、なの説がある。何れも推定の域を出ないのだが、「化粧坂」の文字が後世の当て字だったのは間違いないらしい。
.
【 吾妻鏡 建長三年(1251) 12月3日 】.
鎌倉の各所に店舗や物販の場所を設ける事に禁制を加える旨の沙汰があり、今後は下記の指定場所以外での禁令を厳守せよとの布告がなされた。
佐渡大夫判官 後藤基政 と小野澤左近大夫入道光蓮 (得宗被官、信州坂城の土豪) らがこれを奉行する。許可するのは大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上 である。
また牛を小路に繋ぐのを禁止し、小路は清掃を心掛けること。 建長三年12月3日 原文は下記の通り。
.
建長三年十二月大三日戊午。鎌倉中在々處々。小町屋及賣買設之事。可加制禁之由。日來有其沙汰。今日被置彼所々。此外一向可被停止之旨。嚴密觸之被仰之處也。佐渡大夫判官基政。
小野澤左近大夫入道光蓮等奉行之云云。 鎌倉中小町屋之事被定置處々 大町 小町 米町 龜谷辻 和賀江 大倉辻 氣和飛坂山上 不可繋牛於小路事 小路可致掃除事
.
太平記は
「去程に普恩寺前相摸入道信忍も化粧坂へ被向たりしが」と、梅松論
※には坂の記載はないが
「陸奥守(北條)貞通は中の道の大将として葛原において相戦ひ是も寄せ手の軍侶手しげく
戦ける程に本間山城左衛門以下数輩打死しける程に」、つまり坂上の葛原が戦場になった、と書いている。下り坂に防御陣地を構える筈はないから、北條貞通率いる鎌倉軍は葛原(源氏山一帯)の高地に布陣して梶原方面から登ってくる新田軍を迎え討ったのだろう。
.
新田義貞 は激しい抵抗を受けて化粧坂ルートを攻略できず、主力部隊を率いて極楽寺坂突破に活路を求めた。死力を尽して化粧坂を守り切った貞通軍だったが...極楽寺坂と稲村路がが突破されたため腹背に敵を受ける形になり、結局は全滅の憂き目を見ることになる。
右:化粧坂と扇ヶ谷周辺の地図 画像をクリック→拡大表示へ
.
※鎌倉七口: 江戸時代に「京の七口」を真似て呼び始めたもので鎌倉時代とは無関係。一般的に極楽寺坂・大仏切通し・化粧坂・亀ヶ谷坂・
巨福呂坂・朝比奈切通し・名越切通しを差す。
.
吾妻鏡に記載がある外界との出入口は、気和飛坂・六浦道 (朝比奈) ・名越坂・山内路 (巨福呂坂と亀ヶ谷坂) ・小坪坂・極楽寺坂・稲村路。現在も古道の面影を色濃く残す「大仏切通し」の名は記録に現われず、西側の主要路は極楽寺坂と稲村路の二筋だった。
.
※梅松論: 南北朝時代の貞和五年(1349)前後に成立した軍記物語で、足利氏に近い立場から鎌倉時代末期〜南北朝の争乱を描いている。
太平記の方は比較的北條氏に心を寄せている描写が多く、この二つが軍記物語の双璧をなしている。
.
梶原方面から登って鎌倉に入る葛原一帯の「気和飛坂山上」に相応の商業集積があった、という事なのだろう。亀ヶ谷坂下の岩船地蔵付近に下って八幡宮に向う本道と梶原に下る本道の他に、州崎に下る尾根道、海蔵寺を経て浄智寺方向へ下る道、壽福寺に下る現在のハイキングコース、佐助稲荷の近くから常盤に下る尾根道なども交差していたらしい。鎌倉と外界を結ぶ道路も整備された地点だからこそ、軍事的な要衝となっていた。
源氏山公園には二度目の倒幕計画の際に葛原で斬首された
後醍醐天皇 の側近
日野俊基 (wiki) の墓所が残っている。
.
ちなみに営業が許された大町は現在の大町四つ角(
地図)、小町は本覚寺前の夷堂橋付近(
地図)、米町は推定では大町付近(
地図)、亀谷辻は鉄の井から窟小路を抜けた壽福寺門前付近(
地図)、和賀江は港湾施設に面した材木座(
地図)、大倉辻は金沢街道の岐れ道付近で北条氏康(小田原北条氏三代当主)が商人や荏柄天神の参詣者から通行税を徴収した関取場(石碑あり)辺り(
地図)と考えられている。
.
ちょっと脱線して、鎌倉幕府滅亡から200年以上が過ぎた後北条氏の時代に下ってしまうけれど、通行税が徴収できるほどの場所だからも多くの商人が集まる鎌倉でも有数の繁華街だったのだろう。 「関取場跡」の碑文は次の通り。
.
當所ヲ里俗せきばト称ス 往時ハ関取場ト称セル由 天文十七年北條氏関ヲ此ノ所ニ設ケ関銭ヲ取ッテ荏柄天神社頭造営ノ料ニ宛テシメタル所トス 其ノ掟書ノ文書今ニ残セラレテ荏柄天神社ニ在リ 昭和六年三月建 鎌倉町青年団 建
.
岐れ道で交差していたのは二本の主要道、六浦道 (金沢街道) と二階堂大路。六浦道は朝夷奈切通しを経て六浦津に続いていた。天然の良港として和賀江島と並ぶ物流拠点であり、武蔵国東部から鎌倉を防衛する軍事的な存在価値も高かったルートである。
.
岐れ道から北へ向う二階堂大路沿いには古くから信仰を集めた
荏柄天神社(公式サイト)があり、突き当りの山裾には
永福寺(参考サイト)もあった。
頼朝 が開基を務めた永福寺は応永十二年(1405)に焼失して廃寺になったが、鎌倉幕府が滅亡した頃までは壮大な堂塔伽藍が建ち並ぶ鎌倉でも屈指の大寺として隆盛を誇っていた。
.
【 閑話休題...海蔵寺と化粧坂について 】.
攻防を繰り返した末に陥落した気和飛坂(化粧坂)の戦場に最も近かった
扇谷山海蔵寺 (wiki) も戦火を逃れられず焼失した。山之内から巨福呂坂または亀ヶ谷坂を突破した新田勢に退路を塞がれ追い詰められた北條貞通(化粧坂の守将)の残兵が寺に火を掛けて自刃を遂げた、そんな雰囲気の谷津である。
.
海蔵寺は建長五年(1253)に六代将軍
宗尊親王 が建立(当時12歳だから名目上の開基か)した大寺で七堂伽藍を持ち、最盛期には現在の扇ガ谷四丁目全域に僧坊が並んでいたと伝わる。
宗派は臨済宗建長寺派(そういえば
建長寺(公式サイト)も同じ年の創建だった)、本尊は十一面観音像。仏殿(薬師堂)は薬師如来(胎内に啼薬師を納めている)を本尊としている。
..
寺域は扇ガ谷の最も北西にあり、山門の左右に延びる道はいずれも私有地のため立ち入りは出来ない(海蔵寺のプライベート・スペースかも)。

上: 海蔵寺側から登る化粧坂の山裾部分はゴツゴツした岩肌が続き、数日前に降った雨で滑りやすかった。騎馬で下るのは厳しい。
折角だから主な合戦場所となった葛原(源氏山)まで巡回したかったが、疲れたためパスした。折り畳み自転車で史跡を巡るのも結構骨が折れるものだ。
なるべく近いうちに阿仏尼墓・景清土牢・日野俊基墓などと併せて再訪するつもりである。

左&中: 谷戸の奥に佇む海蔵寺の四脚門(山門)は江戸時代の再建と伝わるが、使われた建材の一部には応仁二年(1468)の墨書がある。
かなり古びた扇谷山の扁額が時の流れを感じさせる。両側に通じる道の奥は私有地のため通行禁止となる。
.
右: 山門に続く石段の右手に残る「鎌倉十井」の一つ・底脱の井(そこぬけのい)。顕時も連座して下野蟄居となった。剃髪した千代能(法名は如大禅師無着)が海蔵寺の井戸で水を汲んだ際に水桶の底が抜け、
「千代能がいただく桶の底ぬけて 水たまらねば月もやどらず」と歌って悟りを開いたのが名前の原典と伝わる。
.
桶の底が抜ける事によって桶に写る月と水への拘りが消え、共に心のわだかまりが解けて悟りを開いた、解脱の歌である、と。
一説には上杉家
※の尼が詠んだ和歌が元とも言われるが、どちらも信憑性は疑われる。
.
※霜月騒動: 弘安八年(1285)の政変。八代執権
時宗 没後に九代執権を継いだ嫡子
貞時(12歳)を擁して強権を握った
平頼綱 ら得宗被官と、
その体制に零落の危機感を募らせた安達一族を筆頭とする御家人連合が衝突した覇権争い。
結果として奇襲を受けた安達一族500余名が死亡し得宗被官の独裁状態になったが、正応六年(1293)になって成長した貞時の
命令で頼綱グループが討伐された。得宗被官への権力集中を避け独裁に伴う恐怖政治への反発である。
.
※上杉家: 足利尊氏 の母(勧修流藤原氏の上杉氏)の叔父で扇ガ谷に住んだ上杉重顕を祖とするのが扇谷上杉氏、重顕の弟で山之内に住んだ
憲顕を祖とするのが山内上杉氏。共に関東の覇権を巡って争ったが、後に小田原北条氏に滅ぼされた。
伊勢新九郎(後世での北条早雲)が見た「鼠が二本の杉を倒して虎に変身する夢」の杉とは扇谷と山内 両上杉氏を差す。