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平安時代中期の延長九年 (931) から天慶三年 (940) にかけて下総国佐倉 (
地図) を本領とした
平良将 の息子
平将門 が疾風の如く駆け抜けた常陸国筑波郡小田邑 (現在の つくば市小田・(
地図) がこの項目の舞台となる。
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小田城の築城は文治元年 (1185) 前後、宇都宮市三代当主
(八田) 宗綱 の息子
八田知家 が源平合戦の恩賞として
頼朝 から常陸守護の職を与えられ、常陸国新治郡八田 (現在の筑西市・
地図) から移転して居館を構えたのが最初される。発掘調査の図面などから判断すると小田城は周辺のかなり広い部分を湿地帯に囲まれた、いわゆる水城に近い構造だったと思われる。
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ちなみに 知家の兄が
宇都宮朝綱、また小山氏の初代
小山政光 (嫡子は前妻の子
朝政) の後妻として 結城氏初代となった
朝光 を産み、更に頼朝の乳母を務めた
寒河尼 は知家の姉妹である。
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吾妻鏡に拠れば、建久四年 (1193) 5月28日の
曽我兄弟の仇討ち事件 (別窓) が勃発した直後に八田知家が「
多気義幹 (wiki) が謀反を企んでいる」と頼朝に讒言、結果として多気義幹は所領と常陸大掾氏惣領の地位を没収となった。鎌倉時代を通じて讒言と裏切りと粛清は鎌倉武士の習いである (同年6月5日〜6月22日の吾妻鏡を参考に) 。「清廉潔白で何よりも名誉を重んじる」などは現代人の思い込みに過ぎない。
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鎌倉幕府滅亡後の小田一族は南朝に属して小田城を拠点としたが、室町時代末期の天正元年 (1573) に佐竹氏に敗北、同十八年 (1590) の豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことから所領は没収され、筑波山南西部一帯の所領は結城氏と佐竹氏に分け与えられた。
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延応元年 (1239) に真言律宗の勧進聖として
奈良西大寺 (公式サイト) の再建に加わった
忍性 は
叡尊 (wiki) に私淑して弟子となり非人宿での救済活動に身を投じた。建長四年 (1252) には本格的な布教を目差して関東に下り、八田一族の庇護を受けて
三村山清冷院極楽寺 (廃寺・別窓) を創建、弘長元年 (1261) に鎌倉に入っ本格的な布教と非人救済活動に一生を捧げる事となる。
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知家の生没年は明らかではないが、父の宗綱の死没が1160年前後・姉の寒河尼が保延三年 (1122) の生誕・長男の 三代当主
八田知重 (wiki) は永万元年 (1165) の生誕で安貞二年 (1229) 、などから考えると生誕は1145年前後と考えるべきか。忍性が常陸に入った1252年には物故していただろうから、常陸で忍性をバックアップしたのは寛元二年 (1211) 生まれの摘孫
泰知 (wiki) と考えたいところなのだが...彼もまた寛元三年 (1245) に35歳で早世しているし、その嫡子で仁治三年 (1242) 生まれの四代時知は幼少で生母が宝治合戦 (1247) で滅亡した三浦氏の娘だったため常陸守護職は従弟の宍戸家周が継承している。宍戸氏は
八田知家 の十男を祖とし小鶴 (宍戸) 荘 (
行政地図を参照) して宍戸氏を名乗った一族。
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さて
忍性 が常陸に入った時の庇護者の特定は宍戸氏だと思われるのだが、宍戸家政は建暦三年 (1213) の和田合戦で
朝比奈義秀 に討たれたらしいのだが、私の吾妻鏡種本には記載がない。また小田氏も宍戸氏も念仏信仰の熱心な宗徒として知られているから、常陸の御家人らが忍性を援助した事は特に疑問ではない。
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この時代の常陸一帯は
良忍 (wiki) の念仏宗と、忍性の真言律宗と、
法然 の浄土宗と、
親鸞 の浄土真宗が混在しており、例えば法然や親鸞に帰依しつつ忍性を援助する様な、複数の信仰をする例も少なくない。従って忍性を庇護した人物を特定するのは困難である。
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弘長二年 (1261) に
北條実時 の依頼を受けて鎌倉に下向した叡尊は真言律宗の講義と共に実時・
時宗 らに授戒するが、その際に忍性に対して
「非人救済などに傾注して布教の努力を怠らないように」との注意を与えている。これは
関東往還記 (wiki) で読んだ記憶だと思うが弘長二年 (1262) は吾妻鏡が欠落した年、歴史を保管する貴重な賞でもある。なるべく早く「吾妻鏡を読む」に転載したいと考えている。信仰を重んじる叡尊と慈善と救済に軸足を置きがちな忍性、二人の微妙な違いが記憶に残っている。

左&中: 快適な自転車道路 、正確には つくば霞ヶ浦りんりんロード (wiki) の この辺 (地図) から小田城址方面に向かって撮影。2枚目は更に約300mほど南下した
龍勝寺の東側裏手から撮影したもの。この自転車道路は昭和62年 (1987) まで現在の水戸線岩瀬駅〜常磐線土浦駅を結んで走っていた
筑波鉄道 (wiki) の
廃線跡を利用したもの。線路は小田城址のど真ん中を突っ切っていたが、さすがに自転車道路は城址の西側を迂回して造られている。
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線路跡の数ヶ所には駅舎やホームの跡も保存されている。左画像は踏切の跡で、警報機でも残してあったら面白かったのだが。
まだディーゼル列車が走っていた頃にこの近くを何度か旅行した思い出があり、甘酸っぱい記憶も少し残っている。北西に隣接する筑西市 (筑波山の西だから
筑西) に定住する事になろうとは、夢にも思わなかった。
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右: 更に南下して 小田城跡歴史ひろば案内所 (wiki) へ。撮影は正面入り口のある一般道路からで、自転車道路は案内所の裏手・左側を走っている。両側で20台ほどが
止められる駐車場と休憩施設などを備え、小田城や非人救済に生涯を捧げた律宗の僧
忍性 の生涯に触れる事もできる。
更に詳細史料については
歴史ひろばパンフレット (pdfファイル) を参考に。

左&中: 自転車道路の奥に見える手前にサブ駐車場があり、隣接する芝生広場には巨大な五輪塔が置かれている。元々は小田城の南側土塁上の鐘楼跡から移設した
もので年代も目的も判明していない。土中に埋まっている基台を含めると2m近くあり、多分忍性が奈良から連れてきた石工の作品だろう、と思う。
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右: 周辺の史跡ポイントを含めたやや広域の鳥瞰画像。枠に収まらないエリアには奈良〜平安時代の常陸国筑波郡の庁舎だった平沢官衙跡 (つくば市平沢353) や
小田氏との紛争が原因で頼朝に滅ぼされた多気六代の義幹の五輪塔 (つくば市北条290‐2) も残っている。これは次回の訪問でレポートしたい。

左&中: 小田城址に向かって歴史ひろば案内所を過ぎるとフェンスに囲まれた一画に夥しい数の五輪塔が納めてある。おそらく城址の発掘調査での収集品だろう。
おおよそ50基ほどもあろうか、永禄十二年 (1569年、信長最盛期の頃) に小田城は佐竹氏の侵攻を受けて滅亡するので、それまでの死者を弔った跡か。
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右: 城址の構造を表示した鳥瞰画像。かつての筑波鉄道が城址のど真ん中を貫くという恐ろしい状態だったことが確認できる。さすがに自転車道路は城址の外郭に
沿って迂回している。筑波鉄道の岩瀬〜土浦間開業は大正七年 (1918) 、歴史の資産を保存するなんて意識のなかった時代なのだろう。

左: 案内所を過ぎて城跡の土塁に接近。線路の跡は土塁を突き抜けて城跡へ、このトンネル部分に遺構の展示室とトイレがあり、自転車道は右折して城址の東側を
迂回している。今回は此処を左に曲がり北側の堀に沿って歩き、東曲輪を経て大手門から内郭へと進む。
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中: 部分的に溜水が見えるだけで現在は四方とも空堀状態になっている。元々は周囲を湿地帯に囲まれた水城(忍城に近い)状態だったらしい。
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左: 内郭を囲む土塁は空堀との高低差が5〜6m程度、水を張った場合は不明。遠くに北側入口の土橋が見えてくる。
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左: 北側の土橋。下に水路 (水はない) が設けてあるから、敵襲の際には簡単に撤収できる木橋と推定される。ここを過ぎると2mほど高い北東角の展望台 (物見跡か) 。
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中&右: 北橋を背景にした北東角の展望台。普通の土塁より一段高いスポットはこの北東角と南東側の二ヶ所に設けられている。右は東曲輪近くから見た展望台。

左: 庭園の予定地から大手の橋を振り返る。南側から見るとかなり頑丈な橋の骨組みが見える。フェンスの構造にもっと配慮すれば雰囲気も変わるのだが。
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中: 橋を渡って南東の展望台へ。歴史ひろば案内所の芝生にある巨大な五輪塔はこの上にあった鐘楼跡から移設したらしい。旧蹟はこの辺りだろうか。
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右: 南東の展望台から土塁の上を西へ、サイクリング道路の先に馬出し (虎口の外側を守る曲輪) 部分が見える。戦国時代の周辺は湿地帯だったと伝わる。

左: 大手門から内郭に入ると正面に広場、左手に休憩用の吾妻屋が設けてある。全体の配置は城跡の雰囲気ではなく緑地公園かと思わせるほど。
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中: 突き当りのT字路奥が建物域とされているが只の芝生広場状態、正面に遺構の配置図看板、奥の土塁に旧筑波鉄道が城址を横切っていたトンネル部分が見える。
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右: 右手の樹木の先が北側の土橋部分、この方向の遠くに筑波山が見える。芝生を右に進むと北西側の展望台 (物見台か) に登れる。

左: 芝生広場の北西、トンネルの近くから内郭の北部分を撮影。日差しの中で休憩するカップルの姿が見える。向こう側の山裾の遥か遠くに極楽寺の遺跡がある。
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中: 更に内郭の中央に進んで大手門近くの東屋方向を撮影。筑波山から続く山並みは忍性所縁の宝篋山麓で終り、東側は土浦市に入る。小田城址の周辺には忍性が
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右: 数本の樹木が伐採せずに残してある南東隅の物見台 (展望台)。歴史ひろば案内所横の芝生に提示してある巨大な五輪塔は土塁上にあった鐘撞堂跡から移設した
ものだが、その由来などは全く明らかになっていない。形状から
奈良西大寺 (公式サイト) から律宗の布教と慈善活動のため東国に下った
忍性 に従って小田に
入った石工集団の作と考えられる。

左: 北東の展望台から大手口の橋を見る。元は木橋で、戦国時代に土橋に造り替えたと伝わる。空堀の中央部分に石の基台が見える事から、木橋の時代には中島を
跨いで二つに分かれていた可能性もある。堀の深さは現在より2mほど深く、底に凹凸を設けた
山中城で著名になった障子堀 (参考サイト) だったと伝わる。
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中: 展望台から南西の方向を撮影。四阿 (休憩所) の右、中央の樹の先に南西虎口が微かに見える。その先が南西の馬出し曲輪になる。四阿左奥の高みが南東の展望台。
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右: 同じく展望台から真っ直ぐ西方向を。オレンジ色の屋根の民家は土塁から60mほど離れており、その更に外側に外堀を兼ねた小川が流れている。

左: 東の展望台から更に北側を向いて東橋部分と、遠くに城址散策をスタートした自転車道路付近のガードレールが見える。
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中: 真っ直ぐ北・5kmほどに平沢官衙遺跡、その更に5kmが筑波山なのだが、生憎の曇天で姿は見えない。私が住む筑西市からは男体山と女体山に分かれた
山頂が最も美しく見える。茨城県の中でも筑波山の南側と西側は気候も温暖で台風や北風の影響も少なくて住みやすいエリアなのだが公共交通の便が悪く、
人口の流失も多い。筑波鉄道が今も健在だったらもっと楽しかったのに、と思う。
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右: 律宗の教義に基づいて忍性が建立した三村山極楽寺の周辺を聖地と定め、宗旨に従って殺生を戒めた結界 (空間領域) を示した碑。元々がこの場所だったか、
移設されたのかは確認できない。中央二行に
三村山 不殺生界、左右に小さく
建長五年癸丑 (1253年) 、
九月十一日と刻んである。
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素材は雲母片岩 (通称を平沢石) で巾122×高155×厚16cm。
こちらのサイト では画像を回転させ、全ての角度から形状を確認できるので参考に。
また上に表示した画像をクリックすると紙に拓したものを確認できる。
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三村山極楽寺の遺跡からは宇都宮氏の菩提寺
益子の地蔵院 や
足利の智光廃寺跡 (現在の平石八幡宮、
地図) と同じ銘の瓦が出土しており、小田氏と並んで
鎌倉御家人の宇都宮氏や足利氏も忍性の援助者に名を連ねていたと推定される。

左: 小田城址から5km弱北西の斜面に残る 多気太郎義幹 の墓所。当初は佐竹氏と共に知行国主だった平家に従い、治承の戦乱後は 頼朝 に臣従した後に
粛清された武士。建久四年 (1193) 5月の曽我の仇討ち直後に頼朝と
八田知家 (小田城を開いた
八田朝重の父) の政略により滅ぼされた。
事件の経緯は「吾妻鏡を読む」の同年6月5日の項を参照されたし。本拠を置いたのは墓所から約1km北の多気山城 (
地図) とされている。
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中: 南に開けた斜面を見渡す高台に大型の五輪塔が一基と、両側に小型の五輪塔が数基。手前右に駐車できる空き地がある。墓所横の碑文は以下の通り。
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多気太郎義幹は桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より数えて十一代に当たる。
三代高望王より平氏を称し、四代良望は常陸大掾 (だいじょう、軍事貴族) に任ぜられ、平国香を名乗る。六代維幹は水守より多気城 (現在の北条山) に
移り初代城主となるが、直系子孫は常陸平氏の本家とされる。維幹より六代目の城主が多気太郎義幹である。
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名君の誉れ高く、領民のため無量院裏池および現在町内を流れる通称裏堀を開削し、水利に多大の貢献を果たしている。しかるに源頼朝の全国支配が進展
するにつれ、義幹の支配下にある小田の地に八田知家が進出し両者の確執が惹起、建久四年の頼朝による富士の巻き狩りに関わる曽我兄弟の討ち入りに
関して知家の讒にあい領地は直ちに没収され、身を駿河国に預けられ同地で没した。
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没日は7月6日と15日の二説がある。遺臣らは義幹の遺徳を偲び霊骸を迎えて当地に葬り、以て英魂の安慰を奉り今日に至っている。
なお無量院は義幹の建立になり、時宗の四代呑海上人が当地を遊行のみぎり、無量院殿等阿弥陀仏の戒名を追贈している。
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左: 小田城址からの道路地図 を参考に。私は 平沢官衙遺跡 経由で訪問したのだが、確認に仮駐車したスーパーカスミ横の案内板では直ぐ近くに見えたため、
600m以上 (往復1.5km!) も歩く羽目になった。:車を使えば現地に横付け出来たのにさ。国道沿いにある直売所から歩くのも悪くない。
ちなみに、上記した平沢官衙遺跡は史跡としての魅力は乏しいが芝生広場や展望や大池などピクニックのスポットとしてはお薦めできる。
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左: 城址北西の寺町の一つ・萬松山香華院龍勝寺 (曹洞宗) 。創建は鎌倉時代後期と想像されるが明確な資料はなく、小田氏九代孝朝が延文六年 (1361) に寄進した
梵鐘に崇福寺と鋳付けた銘があったとの寺伝が想像を掻き立てる。室町時代までの小田氏は勢力を保ったがその後は徐々に衰退、秀吉の小田原攻め (天正十八年・
1590年) の際に佐竹氏との抗争に対応する必要から参陣できず所領を没収され、転々と結城氏→ 越前松平氏→ 徳川氏に仕える立場となる。
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中: 小田城の門を移設したと伝わる山門。佐竹氏の第一次侵攻 (永禄十二年・1569年) か、完全に屈服した第二次侵攻 (天正十一年・1569年) か、所領没収と
なった天正十八年 (1590年) のどの時点かの移設だろう。
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右: 山門から奥に進んだ位置に八脚 (厳密には十二脚) 楼門 (萬松門) 。華美に過ぎず、さりながら質実にも過ぎない美しい建造物だ。楼上には十六羅漢像を収蔵する。

左: 龍勝寺の北300mに位置する医王山遍勝院長久寺 (真言宗)。佐竹氏16代当主 義篤 の庶長子義躬が那珂郡小場村 (現在の常陸大宮市小場・地図) に所領を
得て小場氏を名乗り、長禄三年 (1459) に長久寺を開創、慶長五年 (1600) の佐竹藩の組織再編に伴って小田城に入り、長久寺も同時に移転したらしい。
いずれも室町時代から安土桃山時代の出来事である。

上: 寺域は広く、各所に古い五輪塔や板碑などが集積され、何となく凄然とした雰囲気を醸し出している。左側画像の裏の竹藪の裏手に、この頁の最上段中央に
載せた自転車道路が通っており、資料館経由で訪問する際には城址と反対側に向かって歩くと距離としては至近である (竹藪を過ぎたら左折)。

左: 唯一の見ものと書いては失礼だが、この石灯籠は城址から北東約1kmにあった 三室山極楽廃寺跡 (サイト内リンク、別窓) から移設したものと伝わっている。
建長四年 (1252) に極楽寺に定住した
忍性 は正嘉二年 (1258) に堂宇を改築しているから、この石灯籠は忍性が引き連れてきた
西大寺 系の石工集団が
その前後に造ったものと推定される。鎌倉時代の関東には他に見られない例で、特に台石の装飾は
興福寺西金堂燈籠台石 (wiki 画像) との類似性が指摘される。
竿 (柱)部分のみ、後世の補填である。石灯籠については全く無関心だったが宝篋印塔や五輪塔や板碑のみならず注意が必要になる。
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極楽寺が廃寺となった年代は不明だが、鎌倉幕府が滅亡して100年が過ぎた暦応四年 (1341) に
足利 尊氏 の命令を受けた北朝方の高師冬が小田氏八代当主
治久 の守る小田城を開城させた頃だろうか。この時は三村山極楽寺の背後にある宝篋山 (
地図) に本陣を置いているから、小田城との中間地点にあった極楽寺は
相応の被害を被ったと推定される。極楽寺が廃寺となり石灯籠が長久寺に遷ったのはその頃だろうか。
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中: 本堂は享保十七年 (1732) の建立で正面は八スパン、偶数間のため入口を右にずらして作っている。左右に大小2組の石灯籠を置いた姿も珍しい。
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右: 左は教理を重視し布教に尽力した興正菩薩叡尊上人座像 (奈良西大寺収蔵) 、右は非人や病人の救済を軸に東国での布教を目指した忍性菩薩座像 (鎌倉極楽寺収蔵)。
共に鎌倉中期の
律宗 (wiki) を指導した偉大な宗教者である。己に厳しく、安易な妥協を排した彼らの生き様は、現代の (一部の) 宗教者には理解できないのかも知れない。
この頁は2022年 11月 2日に更新しました。